4.東京工業品取引所の価格が指標

継続して大量に現物を手当てするなら東京工業品取引所(東工取)を使うメリットがあることは十分に分かっている。ましてや、宝飾品は自動車触媒のような機能製品ではないため成分表の必要もなく、プラチナが90%以上含まれていれば製品的にも問題はない。

しかし中島の会社は、多くの中小宝飾メーカーがそうであるように、必要な分だけ必要な時に地金商から手当てをする当用買いが基本である。また手当てする量も東工取での取引の基準となる金1キロ、銀30キロ、プラチナ500グラムに満たない事も多い。そういった面から中小メーカーの実需にとって東工取は使い勝手が悪い。


このため秋田から東工取の仕組みを教えてもらうまで価格指標として見てきたのはニューヨーク・ロンドン・香港の貴金属価格と円相場。それに大手地金商が日本経済新聞に掲載している小売価格だった。しかし、秋田の話を聞いてからは、日中の現物価格の指標として東工取の当限価格(注1)もチェックし続けてきたのだった。

会社を出る時にチェックしてきた今朝の東工取のプラチナ先物の当限価格は前日比23円高の5,230円。あれから1時間半ほど経つが、その間に価格が上がっているのか下がっているのかは分からない。ただ、例え10円上がったところで仕入れ価格が極端に大きく変わるものではないので、目先の上がり下がりは気にしていない。

しばらくしてプラチナを持って戻ってきた荒木に、現在の状況を聞いてみた。

「プラチナの価格状況はどんな感じですか」
「そうですね。今日も円安が進行していますので価格もジリジリと上昇しています。中島さんが指標にされているプラチナ当限価格は前日比33円高の5240円です」
「目先のことはともかくとして、荒木さんはプラチナ価格をどのように見ておられますか」
「中島さんほど詳しくはないのですが、個人的にはまだ高くなるのではと思っています」
「やっぱりそうですか。皆さん、同じことをおっしゃいます。では、荒木さん。11時まであと5分ほどですから前場(注2)終了時の値段を指標に価格を決めるというのはいかがでしょうか」

中島が前場終了時の値段を指標にしたかったのは、円相場やその時の雰囲気に流されて上下に動く場中とは違い、多くの注文が一斉に集まり、売りと買いが同枚数となった時につく値段がより適正価格と判断してのことだった。

「分かりました」
「ありがとうございます。いつもわがままをお聞きくださって感謝します」

中島が頭を下げたので、あわてて荒木も
「とんでもないです。こちらこそ中島さんのような方とお取引できて光栄です」
と、少し遅れて頭を下げたのだった。

東工取の前引けが終了するまであと3分。


その頃、東工取のプラチナ価格はこれまでのジリ高から一転して、デイトレーダーたちによる前引けを前にした手じまい売りに押されている最中だった。個人やプロのディーラーの主戦場となる先限(注3)価格は、10分前につけた前場の高値から売り気配・買い気配値が秒単位で切り替り、それと同時に売買も膨らんでいった。

しかし、今回の指標価格になる当限の価格は緩やかな動きをしながらも、中島にとってはタイミングよく、先限の下落に押されて売り気配値(注4)が小幅に下がっていたのだった。

少し間が空いたため、中島は改めて荒木に話しかけた。

「しかし、私たちの値決め方法も昔とは随分と様変わりしましたね」
「おっしゃるとおりです。昔は東工取の価格はあくまでも先物価格ということで我々もある程度は無視できたのです。しかし今では日中の価格指標の一つとして無視できなくなっている現実があります」


「それだけ価格に透明性が出てきたということなのでしょう」
「そうですね。」
「中島ジュエリーは大企業ではないですし、量や材質の問題もあって東工取を使うことはありません。しかし、誰もが一目で分かる日中の価格指標といえばあそこしかないですからね」
「価格の透明性といえば、大手商社さんが日頃行っているロコ・ロンドンの現物価格と先物市場間の裁定取引(アービトラージ:注5)のおかげでしょうね」
「それはおおいにあるでしょう」

中島は秋田の顔を思い出しながらうなずいた。

「先物価格は、ロコ・ロンドンの現物価格をもとに金利と為替を換算した理論値が計算できます。その理論値をもとに商社は安い市場を買って高い市場を売るわけですから」
「そういえば最近の日本経済新聞に金の小売価格が2,500円を超えたあたりから大手地金商に連日現物の換金売りが殺到している、との記事が出ていましたね」
「ああ、その記事、私も読みました。確か2時間待ちと書いてありましたよね」

荒木が間髪入れずに言葉を返した。

「私が聞いた話では、あの時は金の先物市場でもその傾向が強くあったらしく、商社は東工取の金先物を買って同時にロコ・ロンドンを売る毎日だったそうですよ。普段はその逆のパターンが多いそうなのですが」
「なるほど。今のマーケットでは1円でも市場間で歪みがあると、それを修正する動きが働くようになっていますから、まあ先物価格といっても実際は現物価格との兼ね合いで付いた価格なんですね」


「そういった意味では、市場間で裁定取引を行っている商社の役割というのは、公正な価格形成と流動性の供給という意味でも大きな役割を持っていますね」
中島は笑顔で答えたのだった。

「中島さん、最近では海外のファンドも日本の先物市場に多く入ってきていると聞きますが、その大きな注文が一気に出てきても全て吸収できる流動性が魅力の一つらしいですよ」
「そうみたいですね。流動性とチャンスのない市場には誰も来ないでしょうから、日本の先物市場も海外から注目されるようになったわけですね」

中島が時計を見ると、今回の指標価格となる前引けの午前11時を少し回っていた。

「指標価格が決まったようですね。これからの価格設定などすべての基準が今回の仕入れ価格になるわけですから、早速プリントアウトしてきます。しばらくお待ちください」
そう言いながら、荒木の足は既にドアへと向かっていた。

しばらくすると、東工取の貴金属価格表を手に持って荒木が戻ってきた。

「中島さん、ご覧になってください。プラチナは前日比30円高の5,237円です。それからパラジウムですが、当限価格は前日比3円高の1,240円です」
「そうですか、分かりました」
「先ほどより少し価格が下がってよかったですね」
「本当ですね、ありがとうございます。たとえ少しでも、チリが積もればなんとやらです。それこそ我々の業界では、加工の際に出てくる金やプラチナの削りくずまで全て集める仕組みを整えてます。これこそ本当に、チリも積もればの世界で、馬鹿にはできませんからね」

中島は仕入れ価格が決まった安堵感からか、少し冗談めかした話をしたのだった。


1:当限   まず、限月とは先物取引において売買約定を最終的に決済しなければならない月のことをいい、「期限の月」の略称。当限とは、先物取引において受渡月となった限月のこと。

2:前場   午前(9時〜11時)に行われる立ち会いのこと。

3:先限   先物取引において受渡期日がもっとも先になる限月のこと。

4:気配値  売り方、買い方が希望する値段(指値)のこと。取引の基準となる値段を指す。

5:裁定取引(アービトラージ)
価格変動において、同一の性格を持つ2つの商品の間で、割安な方を買い、割高な方を売ることにより、理論上リスクなしに収益を確定させる取引のこと。