1.異動
4.中小メーカーを守れ
5.ポジションバランスを保て
6.ファーストディール
7.予想外の納会
8.産地勢が参入
9.資源獲得競争は続く


2.4月1日

いよいよ、きょうからゴムだ。正直、全くわからない。わかっているのは相場が立っていてトレードができるということだけ。しかしトレードさえできればいいと自分を納得させたことを思い出しながら、物資部のある7階フロアに向かった。

ゴムチームは7階の向かって右奥に位置していた。その一角に向かって歩くと、銀色に薄く暗く光るゾウの置物が出迎えてくれた。恐らくはタイの名産であるスズで作られものだろう。そして次の出迎えは、VOODOO(ブードゥー)とかいう、糸をぐるぐる巻きにしたような人形だった。テレビで願いが叶うのなんのとやっていたのを見た覚えがある。


これまでいた為替のディーリングルームのように1人あたり複数のモニターが所せましと並び、情報端末から次々流れるニュースやプライスに背中を押されてきたこの7年とは、明らかに時間の流れる速さが違う感じがした。

「おはようございます。本日付けで物資部ゴムチームに配属になった岡田です。よろしくお願いします」
「おぅ岡田くん、よく来てくれたね。役員室で受けた印象からすると断られるのではないかとひやひやしていたよ」
声をかけてきたのは“ラガーマン”坂田だった。しかし、このイカツイ身体から発せられる“くん”という言葉はどうにも馴染まない。一応の敬意を払っているのだろうが、こっちがくすぐったくなる。

その坂田からもう一人のゴムチームのメンバー真木と事務処理を手伝ってくれる女性たちの紹介をひと通り聞き終えたところで、東工取ゴムの価格チャートを開いてみた。もちろん前もって目を通しておいたが、このチャートは見るたびにびっくりさせられる。価格が6年で約6倍になっているのだ。


初めてゴムのチャートを目にしたのは、役員室で坂田に出会った、まさにその日だった。エネルギーチームにいる同期の人間に頼んでプリントアウトしてもらったものだ。商品の世界はすごいと聞いていた。聞いてはいたが、これほどだとは想像もしていなかった。このチャートを見なければゴムチームへ異動は難色を示していたことだろう。

「どうだいすごい上げ方だろう。もう15年近くゴムを見てきたオレでもびっくりだよ。一体何が起こっているんだろうなぁ」
坂田が手柄をあげたような声で話しかけてきた。

「そうですね」
われながら間の抜けた返事をしてしまったと思った。だがそれは、坂田の話し方が過剰流動性云々というのではなく、もっと遠くを見つめて問うている感じがしたからだ。

「ところで岡田くん、キミは天然ゴムをどれだけ知っている」
「全世界で年間約970万トン生産されています。世界最大の生産国はタイで年間310万トン。最大の消費国は中国で…」
そんなことを聞かれているのではないことは初めからわかっていたはずだ。だがつい、口をついて出てしまった。つまり自分は何もわかっていないことを証明してしまったことになる。顔が火照った。

坂田はにやりと口元をゆがめた。
「なるほど。その顔を見るとオレの質問の趣旨は理解しているようだな。なぁ、これからは天然ゴムを扱うんだ。統計やチャートなんかの紙の上のことじゃなく、本当のことを知りたくないか」
坂田は続けた。
「再来週の月曜からタイに行ってこいよ。現地法人に権田さんっていうゴム歴30年を超えるエキスパートがいる。いろいろ教えてもらえ。権田さんにはゴムチームに久々の新人が入ったからよろしくと、もう話をつけてある」

「はい」という言葉が滑らかに口から出た。これほど素直な気持ちで返事をしたのは何年ぶりだろう。ありものの本や資料ではなく、現地に出向いて本物を見て、聞いて勉強してこいと勧めてくれたことへの感謝が言葉になったということか。しかもその勉強はトレードに役立つ。案外いいところにいいタイミングで異動になったのかも知れない。心の端っこにわだかまっていた不安は期待へ変わりつつあった。そして、それが思わぬ形で言葉になった。

「坂田さん、その岡田“くん”というのはやめて下さい。呼び捨てで結構です」
「じゃ、岡田、頼んだぞ」
坂田はどことなくニヤっとした顔をみせてそう言うと、窓を背にした自分のデスクに戻って行った。