1.異動
7.予想外の納会
8.資源獲得競争は続く


1.異動

遠くから何かが聞こえてきた。無機質で規則正しい騒音。この不愉快なシロモノをなんとかしてやろうと手探りをすると、腰や肩の周りに張りを超えたかすかな痛みを感じた。デスクに突っ伏して寝ていたせいだろう。

心を掻きむしるような不快感を覚えさせるこの音の正体が、昨夜、いや正確には夜明け前にセットしておいた携帯電話のアラームだと気づくのに少し時間がかかったのは、ひと相場が終わり、多少緊張感から開放されていたせいだろうか。ポケットロイターのプライスを知らせるアラームなら間違いなく飛び起きていたはずだ。

はっきりしない頭でアラームをセットしたのが朝の6時30分だったことを思い起こした。商社には24時間人がいなくなる瞬間はない。だがこの時間は始発で一旦家に帰る人間と普通に出社する人間の時の挟間であり、人の気配は少ない。もうあと30分くらいはこのだらしない格好でいてもいいだろうと思った。


そのとき背中越しにきりりとした女性の声がした。
「おはよう、岡田」
突然の声に戸惑いながらも声のした方に目をやると、上司の資金為替部課長の伊藤女史がコーヒーカップを差し出しながら立っていた。余分なものは要らないというのが信念なのか、伊藤女史はいつもシンプルな格好だ。きょうもパンツスーツに白のシャツ、それにプラチナのネックレスを覗かせている。5年ほど前に外銀からスカウトされてやってきたやり手の為替ディーラーである。

「おはようございます」
寝不足の自分を鼓舞するように声を張り上げてみたが、どこか間の抜けた調子になってしまった。

伊藤女史はカップをこちらに渡すと言った。
「FOMC(*1)待ちで徹夜をしたのね。リーブオーダー(*2)を出してあるのだからプライスを見続ける必要はないでしょう。まぁ本当のプロになりたいなら、そういう努力も必要かもね」
「いや、ただマーケットが好きなだけです。それにプライスを見ていなければ感じられないものもあると思います」

「ところで岡田は資金為替部に入って何年だっけ」
「7年です」
「そうするとそろそろ30歳か。浮いた話はないの」
「そんな話があれば徹夜してマーケットなんて見ていませんよ。それにどうも身近に素敵な女性が多過ぎるもので…」
減らず口を叩く部下を無視して伊藤女史は続けた。
「ディーリングの腕もまずまずだし、そろそろちょっと違うマーケットを見るのもいい時期かな」

どういう意味ですかと聞き返す暇を与えず、左手を軽く振って、伊藤女史は自分の席へと向かった。もともとは派遣社員で、その後アシスタント、そしてディーラー(*3)へとのし上がってきたせいか、部内のことは上から下までとても良く気がつく。外銀からきたとは思えない面倒見の良さがある。この人がいたおかげで、自分はここまでやってこられたのだと思っている。それだけに最後の言葉が気にかかった。

午前9時30分


“プルルル、プルルル…”
デスクの内線が響いた。
仲値決定(*4)に向けて忙しく動いているこの時間に内線をかけてくるとはどこのどいつだと心の中で毒づきながら受話器を取ると、為替資金部担当役員の松方常務からだった。
「岡田君、手が空いたらで結構です、役員室まできてくれませんか」
「は、かしこまりました」
内心何かまずいことをしたかと疑心暗鬼になりつつ、その一方で今朝の伊藤女史の話も脳裏をよぎった。だからこそこのまま為替のマーケットを見ていたいという本音が心の中で顔を覗かせた。とにかくディーリングが好きなのだ。

役員室のドアを開けると大きなデスクに向かっていた松方常務が笑顔で手招きした。
「待っていましたよ。まぁ、お茶でも飲んでゆっくり話しましょう」
秘書にお茶の用意を指示しながら椅子をすすめてきた。
松方常務は人当たりが良く、組織の調整役にはもってこいの人物だ。ただ役員室でゆっくり話そうというときに限っては、あまりいい話ではないとのうわさが社内にはある。それを知ってか知らずか、常務はけん制するように世間話をくり出してくるが、だんだん雰囲気が重くなっていく。

こちらがその空気にじっと耐えていると、ついに松方常務が切り出してきた。
「実は岡田くんに異動の話がきています。商社の中でも為替資金部の仕事には特別な能力が要求されます。それゆえに特異な部署であり、異動が少ないのはキミも知っての通りです。ですが物資部から、ディーリングのセンスがあり、しかも頻繁な海外出張にも耐えられるタフな人材を一人貸してくれという、そういう要望がきているんですね。そこでね、まっさきに私の頭に浮かんだのがキミなんです」

物資部からの要望と聞いてなんとなく話が見えてきた。物資部にはエネルギーや非鉄金属を扱うチームがあり、彼らはNYMEX(ニューヨーク・マーカンタイル取引所)や東京工業品取引所、LME(ロンドン金属取引所)で取引をしている。いわゆる商品先物というやつだ。最近の商品価格の高騰は知っていたし、もし金ならば、それは通貨を取引するのとなんら変わりはない。原油、貴金属、非鉄金属のトレードなら悪くはないと思った。

「それで物資部のどのチームに異動なのでしょうか」
「ゴムチーム。主に天然ゴムの仕事をしてもらいたいと考えています」
「ゴム? 天然ゴム?」


全く予想をしていなかった答えだ。しばらく思考力が奪われた感じになった。現実から抜け落ちそうになった自分をかろうじて引き止めてくれたのは、ドアをノックする固い音だった。

どうぞの返事に「ゴムチームの坂田です」と言って扉を抜けてきたのは、首の太さと頭とサイズが一緒の、見るからに元ラガーマンという雰囲気を身にまとった体格のいい男性だった。エンブレムのついた紺色のブレザーが不思議に似合っている。年齢は40歳前後だろうか。
松方常務は交互に紹介をしてくれた。だがその間も“ゴム”という予想すらしなかった言葉に打ちのめされていたし、ラガーマンにも圧倒されていたのだろう。息苦しさがべっとりと身にまとわりついていた。

ところがラガーマンは意外な言葉を口にした。
「ゴムにも立派な市場がありディーリングもできる。それに現物も絡むから、きっと岡田くんも興味がわくと思うよ」
どうやらディーリングができなくなるわけではないらしい。それを聞いてようやく得体の知れない息苦しさから開放されたのを覚えている。

(*1)FOMC:米国における金融政策の最高意思決定機関。公定歩合や銀行間取引のための短期金利の誘導目標、景況判断などを決める。
(*2)リーブオーダー:指し値注文のこと。為替取引ではこのようにいう。
(*3)ディーラー:本文では、会社のリスク負担で為替取引をするトレーダーのこと。
(*4)仲値:当日受け渡しの基準レート。