1.異動
4.中小メーカーを守れ
5.ポジションバランスを保て
6.ファーストディール
7.予想外の納会
8.産地勢が参入
9.資源獲得競争は続く


3.産地の動き

成田からバンコク経由で約10時間。ハジャイはバンコクの南約930キロに位置し、タイ南部屈指の商業都市に数えられている。一方で隣国マレーシアとの国境からはわずか約60キロ。このためマレーシアから訪れる買い物客も多く、街は賑わいをみせている。そしてハジャイがあるソンクラ県こそがタイ最大のゴム生産地帯なのである。


ハジャイ国際空港のロビーは意外に湿度が低いようでカラッとしていた。見聞きしたことをそのまま記憶として刷り込むステレオタイプと言われるかも知れないが、東南アジアと聞いて勝手に想像していた、肌にじめっとくる感覚はない。ただ空港自体は、経由地バンコクのスワンナプーム国際空港と比べると雲泥の差だ。スワンナプーム空港がノーブルな紫をイメージさせるとするなら、ハジャイ国際空港は確かに国際空港には違いないが、全体にセピアがかった感じする。それにさっきからタクシー運転手とおぼしき男が懸命に話しかけてくる。しろうと相手にひと稼ぎしてやろうというつもりなのかも知れない。空港のうさんくささを演出するには、この運転手は、いい役どころを担っている。

そんなことを考えていると、今度は向こうから真っ黒に日焼けした50代のコワモテの日本人らしき男が近づいてきた。こんなところまで来て違う筋のバイヤーか何かに勘違いされたらコトだ。だからカタギをアピールするために、せいぜい背筋を伸ばしてみた。しかし、その男はどんどん近づいてくる。距離およそ1メートル。男は口を開いた。
「岡田さんですか。はじめまして権田です。長旅ご苦労さまでした」

汗がどっと噴き出した。この人がつい数日前に電話であいさつした権田さんか。国際電話越しには、一方的に、紳士像を思い浮かべていた。それだけにギャップを感じたのだが、今度は外見から放たれる威圧感とはまったく正反対の腰の低い対応に、改めて落差に苦しめられた。

「岡田です。わざわざお迎えにきていただきありがとうございます」
「いえいえ、こんな田舎にいるとね、本社から日本のヒトがくるとやっぱり嬉しいですしね。ただ最近は、このあたりタイ南部は治安が悪化していまして、誘拐とか多いから気をつけてくださいね。コツはね、まず日本人と思われないこと。それが大切ですね」

どことなくおネエ言葉のようにも聞こえるが、タイに20年以上も住んでいると、言葉も変わってくるものなのかも知れない。大勢の大阪人と話していると、いつの間にか大阪弁のイントネーションに影響されてしまうことがある。つまり大阪弁はそれだけ引力が強いわけだが、その影響を受けたインチキ大阪弁は、本場の大阪人にしてみれば気持ちの悪いシロモノなのだと、インチキ江戸弁で指摘されたことがある。そんなことを思いつつ、権田の口からでてきた言葉を反復していた。

「誘拐?」
「そう誘拐。昔からこのあたりは貧乏なせいか、保険金目当ての誘拐が多いんですね。ただ昔はゴムの値段が安いときによく起きたね。国柄なのかきちんとした統計は取っていないけどね。ははは。ハジャイの人口はおおよそ30〜40万人。そのうちの約15%がゴム関連の仕事をしているのね。だから、ゴムの値段が下がると治安が悪くなったものです」
権田さんの口調がくだけてくるにしたがって、さらにギャップが深まっていった。

「それなら最近のゴム相場の高騰はこの地域にとっては良かったということですか」
ジャブを返してみた。
「確かにゴム価格の高騰自体はこの地域にとっていいことですね。ただ治安という面では911(テロ)以降はむしろ悪化していますね。まぁ、とにかく一人でプラプラ街中を歩かないでくださいね」
911テロとハジャイにおける治安の因果関係が理解できないと思ったが、そんなことには頓着も見せず権田さんは続けた。
「では早速だけど、事務所に荷物を置いたらゴム園と工場を見に行きましょうか」

権田さんのピックアップトラックで田舎道を揺られること40分。途中、ぽつぽつと何人かの子どもたちがかたまって道端に座っているのを見かけた。こちらを、おそらくは車を指差していた。車好きな子どもが多いのかなという印象だ。到着したハジャイ郊外にあるゴム園には、一定の間隔を置いてゴムの樹がきれいに整列していた。ただ、そこに人影はない。権田さんに聞いてみた。


「あぁ、この時間にはもう仕事は終わっているの。ゴムの樹はね、明け方から午前中にかけてがいちばん樹液の出がいいのよ。だから普段は夜明け前に、タッピングっていって、樹に傷をつけてジョウゴみたいなカップに樹液を集めるんですね。午前中にはそのカップを回収し、工場に持っていって次の工程に入る。だから午後になるとゴム園には人はいなくなるのよ」


思わず「へぇ」ともらし、ちょっと前にはやった人気番組を思い出して苦笑した。

「でもね、さっき空港で言ったように最近は治安が悪くなっていて、深夜に一部の過激派が行動を起こすもんだから、深夜の外出禁止令が出ているの。だから樹に傷をつけるのに最適な夜明け前にタッピング作業をするのが難しくなっているんですね」
権田さんは表情を曇らせながら説明してくれた。

「そうなると当然、収穫量も落ちるわけですね」
「そう。いまのゴム価格の急騰は、一般に言われているように中国需要の拡大によるところが大きいのだけれど、夜明け前にタッピングができないから樹液の採取量が減少していることも一因なんですよねぇ」

再び権田さんのピックアップトラックに乗り、今度はディープ・サウス・ラバー(Deep South Rubber)という工場に向かった。ここはRSSのゴム工場だとのことだ。RSSとはリブド・スモークド・シート(Ribbed Smoked Sheet)の頭文字で、日本語では薫煙シートと翻訳されている。

権田さんから工場関係者を紹介されてオフィスで挨拶をしている間はさほど気にならなかった。しかし工場に一歩足を踏み入れたとたん、これまでに経験したことのない強烈な臭気が襲いかかってきた。


「な、何ですか、このニオイは」
「あはは。たいていの日本人はこのニオイにびっくりするよね」
権田さんは愉快そうに言った。
「これはね、薫煙のニオイですよ、く、ん、え、ん」
言われてみれば、確かに野外調理で燻製を作るときにこんなニオイを嗅いだ気がする。もちろん、いまのこの臭気を何百倍にも何千倍にも希釈したものだ。そして現地労働者の皆さんには申し訳ないが、こればっかりはいただけない。自分自身が燻製の機械に放り込まれている、そんな錯覚に陥るほど強烈だ。涙も出てきた。

やがてわずかではあるが、ニオイに慣れたころ目に入ってきたのは、ハサミを持ってシート状のゴムと格闘している多くの女性たちだった。
「あちらの方たちは何をしているのですか」


「クリッピングだよね。薫煙が終わったシートゴムからハサミでゴミを切り取っているの」
「なるほど。それで、さっきから気になっていたのですが、この工場は女性の従業員が多いですね」
「あ、気がついた?タイのゴム産業は女性が支えているとも言われてますね。男連中はね、職や夢を求めてバンコクに行きますから。だからね、地方に残っている女性が多くなるんですねぇ」

権田さんはひとりの女性が持つハサミに焦点を合わせるように目を細めた。
「それにね、タイ人の女性は勤勉だよ。男を食わしていかないといけないから」
「えっ、どういうことですか」
「タイ人の男性の多くは日本人ほどあくせく働かないの。特に地方ではね。そして何よりも『女とギャンブル』をこよなく愛する人が多いのね」
「なんだか女性がかわいそうですね」
「それがね、タイ人女性には好きな男に尽くすのは当然という意識もあるの。だから一概にかわいそうだとも言えないんだねぇ、これが」

「タイ人の男性はギャンブル好きですか。それはちょっと共感できるな」
「ここにくる途中で道端に子どもが数人ずつ固まって座っていたのに気づいたかなぁ。あれはなにをやっていたんだと思いますか」
「なにをって、車好きの子どもたちじゃないんですか」
「あはは。岡田さんは純真だねぇ。あれは次に来る車のナンバーが偶数か奇数か賭けていたんだよ」
「!」
自分の耳を疑った。まだ小学生くらいの子供が自動車のナンバーで賭けとは。そういえば、この国は国技のムエタイも賭けの対象になっていると聞いたことがある。日本では国技の相撲で公に賭けをするなんて想像できない。なんとまぁ懐の深い国にきたものだと、いまさらながらそんな思いが湧きあがってきた。

自分の発想の貧弱さ加減を思い知らされたタイ出張もあと1日に差し掛かったところで再びゴム工場を訪れた。すると事務所の奥で何か揉め事でも起きているのか、大きな声が耳に飛び込んできた。たどたどしくも強い口調の英語だ。

「権田さん、なんでしょうね」
「どうやら日本のタイヤメーカーのバイヤーと工場側が揉めているようだねぇ。おそらく、納品した荷物に問題があったんでしょう。タイヤメーカーはシンガポールに原料調達のヘッドクォーターを置いて、原料の買い付けや、原料そのものに問題があったらすぐに動くんですね」
「精密機械や化成品と違って天然ゴムは比較的アバウトと言うか、規格が緩いと思っていたのですが…」

「タイヤっていうのはね、実はあれで技術の塊なんです」
「技術の塊ですか」


「そう。タイヤメーカーにはね、それぞれ自社ブランドに強いこだわりがあるの。そして彼らは自社ブランドの追及、それは他社との差別化でもあるのだけれど、そのために持てる技術をすべてつぎ込むわけ。その時、目安というか尺度になるものに、たとえばグリップ力、耐久性、静かさなんていう要素があるんです。どの要素を最優先するかはメーカーによって違うし、タイヤのグレードによっても違うけれど」

権田さんは続けた。
「いずれにせよタイヤメーカーが、自社が目指すタイヤを作るためには、現材料もそれなりのモノが要求されるってこと。グリーンブック(天然ゴム各種等級品の国際品質包装規格書)というものがあって、ゴムにも一応は世界統一的な規格がつくられています。けれども同じ規格内でも、タイヤメーカーによってはさらにグレード分けするところもあるんです。つまりゴム工場への要求は必然的に難しくなるわけ」
「なるほど、それは大変ですね。でもモノを作るということは、そこまでのこだわりがなければいけないってことでしょうね」

「それと、タイヤメーカーが原材料の品質にこだわるのにはもうひとつ理由があるの。なんだかわかる?」
「優れた製品を作ることがすべてではないのですか」
「それは違う。答えは工場の生産ラインを止めないこと。ラインを一日止めると数億円規模の損失になるわけ。特に“練り機”といって、天然ゴムを練りながら溶かす大きな釜のようなものがあるのだけれど、これに品質の悪いゴムを入れて不具合を発生させようものなら大変な損失になっちゃう」

岡田は見たことのないタイヤメーカーの生産ラインを想像してみた。しかし心に浮かびあがってきたのは、小学生の頃に社会科見学で訪れたビール工場だった。間断なく動くコンベアーのライン。すると、ラインのどこか一か所の断絶が全体を麻痺させてしまうというおそろしい図が瞼の内側に投影されてきた。

「なるほど。そうなると生産計画から何からすべてが狂ってしまう」
「そう。だからタイヤメーカーによっては、自分でゴム農園を経営することもあるのです。それが品質の安定や計画的なラインの稼働につながる。それに研究開発的なこともできるでしょ。確かにどこからか安いゴムを引っ張ってきてコストを下げることは大事かも知れない。けれどもタイヤメーカーにとっては、安定した品質の原料を使ってラインを無駄なく動かすことも立派なコスト削減になるということなんですね」

「どうやら、ぼくには相場から物事を見るクセがついてしまっていることがわかりました。もう少し広い観点から天然ゴムを見なければいけませんね。今回のタイ産地視察は本当にいい勉強になりした。おかげで送り出してくれた坂田にもいい出張報告ができそうです」