

1.異動
2.4月1日
3.産地の動き
7.予想外の納会
1.異動

「おはよう、岡田」
突然の声に戸惑いながらも声のした方に目をやると、上司の資金為替部課長の伊藤女史がコーヒーカップを差し出しながら立っていた。余分なものは要らないというのが信念なのか、伊藤女史はいつもシンプルな格好だ。きょうもパンツスーツに白のシャツ、それにプラチナのネックレスを覗かせている。5年ほど前に外銀からスカウトされてやってきたやり手の為替ディーラーである。
寝不足の自分を鼓舞するように声を張り上げてみたが、どこか間の抜けた調子になってしまった。
「FOMC(*1)待ちで徹夜をしたのね。リーブオーダー(*2)を出してあるのだからプライスを見続ける必要はないでしょう。まぁ本当のプロになりたいなら、そういう努力も必要かもね」
「いや、ただマーケットが好きなだけです。それにプライスを見ていなければ感じられないものもあると思います」
「7年です」
「そうするとそろそろ30歳か。浮いた話はないの」
「そんな話があれば徹夜してマーケットなんて見ていませんよ。それにどうも身近に素敵な女性が多過ぎるもので…」
減らず口を叩く部下を無視して伊藤女史は続けた。
「ディーリングの腕もまずまずだし、そろそろちょっと違うマーケットを見るのもいい時期かな」

デスクの内線が響いた。
仲値決定(*4)に向けて忙しく動いているこの時間に内線をかけてくるとはどこのどいつだと心の中で毒づきながら受話器を取ると、為替資金部担当役員の松方常務からだった。
「岡田君、手が空いたらで結構です、役員室まできてくれませんか」
「は、かしこまりました」
内心何かまずいことをしたかと疑心暗鬼になりつつ、その一方で今朝の伊藤女史の話も脳裏をよぎった。だからこそこのまま為替のマーケットを見ていたいという本音が心の中で顔を覗かせた。とにかくディーリングが好きなのだ。
「待っていましたよ。まぁ、お茶でも飲んでゆっくり話しましょう」
秘書にお茶の用意を指示しながら椅子をすすめてきた。
松方常務は人当たりが良く、組織の調整役にはもってこいの人物だ。ただ役員室でゆっくり話そうというときに限っては、あまりいい話ではないとのうわさが社内にはある。それを知ってか知らずか、常務はけん制するように世間話をくり出してくるが、だんだん雰囲気が重くなっていく。
「実は岡田くんに異動の話がきています。商社の中でも為替資金部の仕事には特別な能力が要求されます。それゆえに特異な部署であり、異動が少ないのはキミも知っての通りです。ですが物資部から、ディーリングのセンスがあり、しかも頻繁な海外出張にも耐えられるタフな人材を一人貸してくれという、そういう要望がきているんですね。そこでね、まっさきに私の頭に浮かんだのがキミなんです」
「ゴムチーム。主に天然ゴムの仕事をしてもらいたいと考えています」
「ゴム? 天然ゴム?」

松方常務は交互に紹介をしてくれた。だがその間も“ゴム”という予想すらしなかった言葉に打ちのめされていたし、ラガーマンにも圧倒されていたのだろう。息苦しさがべっとりと身にまとわりついていた。
「ゴムにも立派な市場がありディーリングもできる。それに現物も絡むから、きっと岡田くんも興味がわくと思うよ」
どうやらディーリングができなくなるわけではないらしい。それを聞いてようやく得体の知れない息苦しさから開放されたのを覚えている。
(*2)リーブオーダー:指し値注文のこと。為替取引ではこのようにいう。
(*3)ディーラー:本文では、会社のリスク負担で為替取引をするトレーダーのこと。
(*4)仲値:当日受け渡しの基準レート。