1.異動
6.ファーストディール
7.予想外の納会
8.産地勢が参入
9.資源獲得競争は続く


5.ポジションバランスを保て

どこかで似たようなものを見たことがある気がした。坂田に渡された紙の束の話だ。紙の束というよりも、むしろ表の束と表現した方が正しい。その1枚に目を落とすと、「売残」「買残」という言葉とともに数字がちりばめられている。コーヒーカップを人差し指に引っかけながら戻ってきた坂田に訊ねてみた。


「もしかして、これはポジション表ですか」
「おう、よくわかったな」
「資金為替部にも似たようなものがありました。ドルやユーロなど、各部署が必要な外貨額と保有している外貨額が一覧になっている表です」
「まぁ、それと似たものだよ。うちのポジション表は、現物の買残と売残、それと先物の売残と買残、さらにコストが書いてある。オレ達の仕事は、基本的には売りと買いのコストを見ながら、全てのポジションのバランスを保つことだ」

「ほら、たとえば6月をみると現物は1,000トンの買い越しになっているだろ。一方で先物は750トンの売り越しだ。つまりネットでは250トン買い越しになる。この250トン分のコストをフィックスするのが仕事ということだな」

「つまり先物で250トン分の売りを建てるということですか」
「そう、それが基本的なやり方だな。まぁ、メーカーがいい値段で買ってくれれば、それでよしだけどね」
坂田がコーヒーカップを傾けた。そのとたんに香ばしいかおりが、カップのふちからこぼれてきた。どうやら坂田はミルクと砂糖を入れない派のようだ。

「現物を扱うということは、先物取引は基本的にヘッジ目的になりますよね」
“基本的”と言ったのには理由がある。どの相場でもそうだが、純粋にヘッジを目的として市場参加している業者はまずいない。自分が資金為替部から呼ばれていまここにいるも、そのあたりが理由のはずだ。もしそうでなければ、ディーラー職自体が向かないとされ、トレードには関係のない部署に飛ばされていただろう。

「もちろん、そうだ。基本的には産地で現物を買い、現物の引き取り手が決まっていなければ先物市場につなぐ。そんな時、先物市場は結構、使い勝手がいい。現物市場では、産地の買い付けと需要家への売りのタイミングが一致しないことが多いんだ。例えば7月ごろ、産地では比較的荷物があるので売りたいが、需要側は夏期休暇で工場を休みにするために買い控えたいという欲求が働く。そういう時に産地から買って先物でヘッジし、売り手と買い手のタイムラグを調整することもある。先物はそういう機能を果たしている」

坂田の答えはあまりに教科書的な気がした。だからちょっと皮肉をこめて訊いてみた。
「それにしては、売残と買残に差があるように思えますが」
「産地で現物を買い付けたらなぜすぐに日本やシンガポールの先物市場でヘッジをしないのかという疑問だな。もちろん、そうする場合もある。しかし、そうでない場合があるのも事実だ。つまり思惑(おもわく)の部分もないわけじゃないということになる」
坂田はまるで前もって用意しておいた誕生日プレゼントが見つかってしまったかのように、ちょっとバツの悪そうな顔をした。


待ってましたとばかりに、ちょっと大げさに言ってみた。
「思惑?」
「ああ。産地の相場がこれから安くなると思えば、積極的には産地で買わないだろう。むしろ、余裕のある範囲で先物の売りを厚くすることだってある」
坂田は肩の荷が下りたかのように饒舌になった。

「つまり相場を張るってことですか」
「まぁ、それに近いな。それにゴムの場合は当先(期近物と期先物の間)で10円前後の値サヤが開くのが普通だ。しかし、そのサヤがなんらかの特殊な要因で15〜20円近くまで開いてしまうことがある。そういう時には期先を売って、期近を買うといったサヤ取りだってやるときもある」
「結構、いろんなオペレーションをやるんですね」
「さっき、天然ゴムはタイヤメーカーの直接買い付けが9割近くあると教えたはずだ。いろいろ考える必要があるだろ。だから、トレードを知っているお前をわざわざ引き抜いたんだ」
坂田からその言葉を引き出して、ようやく胸に安堵感が広がった。坂田のコーヒカップからは、もう湯気は立っていなかった。