4.プライス・フィキシング

尾島はグアテマラの視察ツアーから戻った2月中旬のある日の午前中、北野トレーディングの中川にプライス・フィキシングの電話をした。視察ツアー中もニューヨーク相場の下落に注意していたが、そろそろ期限も近づいてきたため、この水準で決めることにした。

「もしもし中川君。この間の視察ツアーではお世話になったね。うちの中島もとても感謝していたよ」
「こちらこそ、いろいろありがとうございました」
「ところで、2月に入ってニューヨーク市場は下落が続いているが、5月限が120セントを割り込んできたし、3月限のファースト・ノーティス・デー(受渡通知開始日)も近づいているので、今夜の寄り付きのニューヨーク5月限で3月積みの全量をプライス・フィキシングしてくれ」
「分かりました。ニューヨークの担当者に伝えます」


ここで、日本の焙煎業者の買い付け事情を記しておこう。もちろん全量を輸入に頼っているが、その取引の8割以上は指標のニューヨーク市場(ロブスタの場合はロンドン市場)とのベーシス(サヤ)取引で、ターム(1年〜1年半)契約されている。当然だが、スペシャルティー・コーヒーなど少量の契約はこの限りではない。ただいずれの場合でも、残念ながら現在のところは、東穀取の価格を基準に現物取引が行われることはない。

電話が終わった後、尾島は中島を呼んだ。尾島はいずれ中島にこの業務を任せようと思っている。
「うちは、北野トレーディングとの間でグアテマラ産S.H.B.を年間12,000袋買い付ける契約をしている。船積みは月に1,000袋ずつ12回に分けて行う。買い付け価格は直近のニューヨーク期近価格+5セントだ。このベーシス取引の合理性はなんだ?」
「はい。買い方と売り方の双方にとって価格変動リスクを軽減することで長期契約を可能にします。買い方には安定した供給源を、売り方には安定した需要先を確保することができます」と中島は模範解答を言った。

具体的には、買い方である国内焙煎業者は、期間中に自分が最も安いと思うニューヨーク期近の値段でプライス・フィキシングする。これに積み期の為替予約を掛けて、運賃、保険、諸経費を加えて円価でのコストが決定する。したがって、焙煎業者のプライス・フィキシング担当者にはコーヒー市場や為替市場等の相場観が必要になり、ファンダメンタルズ(商品固有および経済一般の基礎的要因)の情報も重要になってくる。

「もちろんプライス・フィキシングは直近積みのものだけでなく、それ以降の積み期のものを一気に決めてもかまわない。例えば、7月にブラジル産地が大規模な寒波で降霜被害を受けて相場が上昇する可能性があると思えば、その前にすべてをプライス・フィキシングすることも可能だ」
「はい」
「ただ、幸か不幸か1997年の3ドル相場を最後にニューヨーク市場で大相場はない。逆に1998年から2003年にかけて長期低迷相場が続いたため、買い方が苦労することはなかった」
「話には聞いていますが、まだ入社以来、大相場を体験したことはありません」
「会社としてはそれほど頻繁に大相場があったら困るけれど、商社なら儲けるチャンスにもなる」
尾島は笑いながら言った。


一方、売り方である輸出業者は、産地の農家なり生協なりの生産者から現物を買った時点で、通常は、その価格以上でニューヨーク市場にヘッジ売りを出す。将来の価格下落リスクを回避するためだ。そして、売却価格が決定した時点でその売り玉を外す。一般的にプライス・フィキシングの期限はファースト・ノーティス・デーが多い。輸出業者のヘッジ売り外し(=買い戻し)もその時期で多く入るため、相場は上昇しやすくなる。そのタイミングをファンドに狙われる場合もままある。

仲介する商社も右から左に注文を通すだけではない。それでは約2.5%のマージンしか手に入らないからだ。仮に焙煎業者がプライス・フィキシングしている相場よりさらに下落すると思えば、それを輸出業者にそのまま流さず、ニューヨーク市場で売り玉を建てて利ザヤを稼ごうとするはずだ。

「私が北野にいた頃はかなり積極的にリスクをとった。相場師的な感覚はそこで磨いたよ。もっとも最近の商社はそういったリスクを昔ほどは取らなくなっている」
「そうですか」
「先日、中川と飲んだときに、私が昔ニューヨークのコーヒー先物市場で、最大で10万枚のポジションを持ったことがあると言ったら、やつは目を白黒させて今は1万枚でも稟議が必要ですと言ってたよ」
尾島はまた笑い声をあげた。
「商社もそれだけ堅い商売に変わってきたのですね」
「まあ、過去にかなり手痛い目にもあっているからな」

数日後、中川から尾島に20日の寄り付き値である115.85セントでプライス・フィキシングが成立し、月末までにインボイス(請求書)が届くとの旨の電話があった。
その後の相場展開を見ると、3月限のファースト・ノーティス・デーに急反発して、そのあと120セント台まで戻すというよくありがちなパターンとなっており、尾島のプライス・フィキシングは絶好のタイミングだったことになる。
中川や中島からは感嘆の声が上がったが、これも相場を長年見てきた者の名人芸と言えるだろう。