3.腹案


1.朝一番の内線電話

渋谷良一が出勤前にひげを剃っていると、朝刊を取りに行っていた妻の久美子が戻ってきた。渋谷の家は30階建て高層マンションの20階にある。エレベーターから遠いだけでなく、1階の郵便受けもエレベーターから遠く、久美子は新聞を取るといつもそれをななめ読みしながら戻ってくる。


それを知っている渋谷は久美子に「何か大きなニュースある?」と聞いた。
「主婦としてはお醤油の値段が上がるというニュースかな」

「そうなんだ。それじゃ、自分の健康のことだけじゃなくて、これからは家計のことも考えて、醤油をかけ過ぎないように気をつけないといけないな」
「そうね。いくら健康に気づかって薄味にしても、あとからたっぷりお醤油をかけているあなたが少しでも控えてくれるようになれば、値上がりも悪いことばかりではなくなるわ。でも私も少しでも安いところを見つけられるようにスーパーの広告をよく注意するようにしないといけないわね。まったく、ガソリンとかパスタとかパンとか、このごろ何でも値上がりして、困っちゃうわ。ちょっと前まではデフレ、デフレって言っていたのに」
「ほんとだなぁ」

そう妻に同調しながらも醤油メーカーが値上げするのは仕方がないと渋谷は思っていた。というのも、醤油の原料は大豆、そして自分が勤務している搾油メーカーも大豆などを原料にして油を取り出している。しかも原料部に配属されているため、このところ大豆の価格が大幅に上昇しているのを良く知っているからだ。

満員電車の中で4つに折った朝刊を渋谷が読んでいると、久美子が言っていたニュースが目にとまった。メーカー大手が醤油類全132点を平成20年3月16日から約11%値上げすると発表したとのことだ。原料となる輸入大豆などの価格高騰が原因で、値上げは平成2年以来だという。

渋谷は新聞の記事を読みながら頭のなかでつぶやいた。
「大豆価格の高騰で苦労しているのはうちだけじゃないんだな。毎日毎日、なんとなく飲んでいる味噌汁の味噌、それから豆腐、納豆と大豆を原料とした食品は結構あるからな。ただ大豆の値段が上がったというだけでは済まないのも当然と言えば当然か」

醤油が値上げになるといっても1本330円が368円になり、値上がり幅は38円。38円というと子供の駄菓子くらいしか買えないような金額だが、原料の大豆は2倍の値段に上がり、大量に生産する企業にとっては38円高いか安いかが業績を大きく左右する。

会社の最寄りの駅で満員電車の中から弾き出されるように降りたあと、通勤途上にある誰もいない小さな公園を横切った。11月半ば。黄金色に色づいているイチョウの葉を眺めながら、渋谷は「ああ、うちも値上げできたらいいのに。しかし大手ならいざしらず、中堅搾油メーカーのうちは難しいよな」と独りごちた。


会社に着いて席に着こうとすると、まるで待ち構えていたかのように内線が鳴った。
「はい、原料部の渋谷です」
「おはよう、渋谷君。出社早々で悪いのだが、今時間はあるかね。君と話しがしたいのだが」
原料部担当役員の大塚常務からだった。

「大丈夫ですが。いったい何についてのお話でしょうか」
「用件はあとで話すよ。それじゃあ第2会議室で」
渋谷はいぶかしげな顔をしながら受話器を置くと指示された部屋に向かった。

会議室にまだ大塚常務は来ていなかった。渋谷はどんな用件だろうとひどく気になり、静まりかえった空気の中でそのことばかり考えていた。緊張してトイレに行っておこうと思って立ち上がりかけると、大塚常務がいきなり入ってきたので慌てて座り直した。

「渋谷君、朝一番から呼び出してすまないな。実は君にお願いしたいことがあるんだ。君も良く知っているように原料の大豆が高騰している。こうした原料コストの上昇が今うちの経営に重く圧し掛かってきている。このため、原料コストを少しでも減らす方法を早急にまとめて、提出してほしい。そうだな、期限を決めておかないとずるずると先延ばしになるから1カ月後までに出してくれ。決して容易ではないことはよく分かっているつもりだ。しかし、渋谷君、君ならできるはずだ」

真剣な眼差しでそう語りかけてくる大塚に対して、渋谷はとても否定的なことは言えず「分かりました」と答えた。内心とんでもないことを任されたなと思った。しかし同時に生来の負けず嫌いから絶対に常務の期待を裏切るまいと心に誓った。