3.腹案


3.腹案

大塚常務から原料コストの削減案をまとめるように言われてから1週間が経っていた。
渋谷は午前の仕事がひと段落したあと、老舗の大豆問屋である高田商事に電話を掛けた。


「もしもし渋谷と申しますが、高田社長はいらっしゃいますか」 女性社員の「少々お待ちください」という答えが返ってきた。

高田商事は大手輸入商社と取引がある一方、顧客へ転売するまでのヘッジ市場として東京穀物商品取引所に上場されている大豆の先物市場を利用している。

高田商事の社長である高田慎一郎は若いころ商社勤めだったらしいという話を渋谷は聞いていた。高田は渋谷と会う時にはいつも、決して派手ではないが、仕立ての良いスーツを上品に着こなしていた。だからいつの間にか渋谷は、おしゃれとはこういうことをいうのだろうと思うようになっていた。

実際、高田は商社勤めをやめた後に家業の大豆問屋を継ぎ、経営者としての腕をふるっていた。高田が優れていたのはスーツのセンスだけでない。面倒見の良さも兼ね備えていた。そしてその才は社内だけでなく社外の若手にも分け隔てなく発揮された。だから高田を慕う若い人間は多い。渋谷もその一人だ。むろん渋谷自身は若手をすっかり卒業していた。しかし、今でも高田からは折に触れ多くの指導を受けていた。

しばらくおいて高田が電話に出てきた。
「渋谷君、待たせてすまんすまん。今日はどんな用かな」
「実は原料高騰の折、うちも仕入れコストの上昇に頭を痛めておりまして…」

「それで?」
「少しでも仕入れコストを削減する方法を考えているのですが、そのひとつとして先物市場を利用できないものかと…」

「ほう」
「そこで高田社長から色々教えていただけたらと思いまして」

「そういうことか。大したことはできないと思うけれど喜んで協力させてもらうよ。何かあればいつでも連絡してきて欲しいね」
「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります。本当にいつも世話になってばかりですがよろしくお願いします」
渋谷はほっとした表情で電話を切った。

渋谷はこれまでも仕事の日に子供と一緒に夕食をとることはできなかったが、このところは帰った時間に子供が起きていることすらなかった。

この日帰ったのも、あともう少しで日付が替わるという時刻だった。子供部屋をそっと覗くと一人娘の美穂が布団をはいで寝ていた。布団を直しながら寝顔を見ると微笑んでいるように見えた。そんな子供の寝顔が仕事の疲れを癒してくれる。

かなり遅い夕食をとっているとテーブルに1枚のプリントが置かれているのに気付いた。久美子は「それね、宿題らしいの。身の回りの人に仕事のことを聞いてまとめるんですって。あなたに話を聞きたいらしいわよ」と言った。
「できるとしたら週末だな」
渋谷は子供に仕事の話をすることが正直、照れくさく感じた。だが、多忙で最愛の娘との時間を持てない現況には決して満足してない。だから理由が何であれ、美穂と話をできることがとても楽しみで、はやく週末にならないかと思った。


「それにしても、あなた毎日遅いわね」
「うん。この前話したけれど、大塚常務から頼まれた仕事をやらなくちゃいけないから」

「それうまく進んでいるの?」
「まずまずといったところかな」
「そう。まずまずなら良いじゃない。でも大手もどこも原料が高いという条件は同じなんでしょ。原料調達のコストを減らす方法なんてないような気がするけど。いったいどうやってそんなこと…」
「先物市場を使うんだよ」

「先物市場? どうして先物市場を使うと原料コストを削減できるの」
「うちのように実際に大豆を必要している会社が現物を調達したり、逆に現物を保有していている会社が渡したりするのが現物市場さ。一方で先物市場は、必ずしも現物を必要としていたり、売却を望んでいる人ばかりが参加しているわけじゃない。そういうこともあって現物市場と先物市場の価格がいつも同じ動きをしているとは限らないんだ」

現物市場で交わされているのは、いわばその商品の「いまの価格」だ。「いまの価格」はそのまま商品の受け渡しの値段になる。ところが先物市場の価格は「将来の価格」である。それは1カ月先かも知れないし1年先かも知れない。つまり先物市場で商品の売買をする人は、いまの時点で、たとえば1年先の値段を決めていることになる。当然、「将来の価格」と「いまの価格」は異なる。だが1年先の価格も時間の経過とともに「いまの価格」に近づいてくる。「将来の価格」が「いまの価格」になる日。それが納会(のうかい)だが、その価格は、現物市場の「いまの価格」と等しくなる。少なくとも理屈の上ではそういうことになっている。

「それで?」
「ところが先物価格が現物価格より高くなる時もあれば、安くなる時もあるんだ。だから先物価格が現物よりも安い時に先物市場で買い、納会までその買いポジションを持ち続けて現物を受け取れば、現物市場で調達するよりもコストを抑えられる可能性があるというわけさ」
「へぇ、そんな方法があるのね」
「実は長いこと先物市場で原料調達をしている搾油メーカーがあるんだ。そこもうちと同じような中堅の搾油会社だけど、先物市場で割安なときに現物を調達してきたことで原料調達コストを圧縮できているみたいなんだ」

渋谷は風呂から上がったあと、このごろ白髪が多くなってきたのに気付き「俺も若い頃と比べて変わったな」と独り言を言った。そして変わったのは自分の外見だけでなく搾油業界も同じだと思った。しかし自分や業界が大きく変わっても、より良い商品をより安く仕入れ、それをお客様に気持ちよく買っていただくという商売の基本は何も変わっていないのだと心の中でつぶやいた。