3.腹案


4.プレゼンテーション

自分はかなり先物相場を見ている方だろうと渋谷は思っていた。それも海外市場ではなく、東京穀物商品取引所に上場されている大豆の先物市場を良く見ている。渋谷は、自分が先物相場に抵抗感がないのは、おそらく父親の影響だろうと思っていた。というのも、その父親は3年前に他界するまで和菓子の製造卸を営んでおり、商品先物市場を使っていたこともあるからだ。

渋谷は大塚常務に呼び出されてから1カ月後、原料部を代表して社内の重要会議の席にいた。その会議で大塚常務から支持されていた原料コストの削減案を発表することになっており、居並ぶ役員を見て思わず緊張せずにはいられなかった。

会議が始まる直前に大塚常務が渋谷のもとにやってきて「よろしく頼むぞ」と声を掛けた。渋谷は「がんばります」と答えたものの、その声が緊張のあまりうわずっていたのが自分でもわかった。渋谷は落ち着こうと思い、用意されていたミネラルウォーターを一口飲んだ。

「原料部の渋谷です。以前からあった案件ですが、ご存知のように原料価格の上昇が止まりません。営業部の方もご苦労されていると思いますが、コスト上昇をそのまま製品価格に転嫁していくには限界があります。現在のような原料の高騰がやまない環境では、市場機能を巧く使っていくべきではないだろうかと考えました」

「それはどういうことかね」と総務担当役員の上野取締役が聞いてきた。
「はい、先物市場を利用するということです。商社は米国中西部で収穫された大豆を輸入する際、売却先が決まっている大豆で船を一杯にできない場合には、売り先の見つかっていない大豆も合わせて積み込みます。とにかく船を一杯にして、単位重量当たりの海上運賃(コスト)を安上がり仕上げるためです。では船を満載にするために積んだ売却先の決まっていない大豆のリスクはどうするかということです。実は先物市場で売り約束をする方法があります。これを売りつなぎまたは売りヘッジと言います。産地で買いつけた大豆が手許にとどいたら、すでに暴落していたでは困ります。マージンや運賃をカバーできないどころか、買値を割り込んでいたら大赤字です。そうした事態をあらかじめ回避するために先物市場で売っておくという、いわば保険のためのオペレーションです。しかし今回の私の提案は、状況に応じて先物市場で買い持ちして、現物を先物市場で受けることを考えています」


「具体的にはどういうことかね」
「例えば、シカゴの大豆先物市場の期近2008年1月限(*)の価格が1ブッシェル(=Bu、表下の注参照)あたり11ドル、米国の穀物主要輸出港がある米メキシコ湾岸において輸出する際の価格がシカゴの1月限価格に36セントをプラスした額だとします。そして米メキシコ湾岸から日本までの海上運賃が1トン当たり119.89ドル。為替レートは1ドル=111円。荷揚げなどの諸経費をトンあたり3,000円だとすると、輸入採算価格は1トンあたりおよそ6万2,440円の計算になります」
*1月限:08年1月に現物を受け渡す約束の取引。


「それで」
「その際に東京穀物商品取引所の一般大豆先物の期近07年12月限が1トン当たり5万7,300円だと仮定して買いポジションを建てれば、シカゴ相場をベースに弾きだした輸入採算よりも5,000円以上割安で買えたことになります」

「しかし、シカゴの先物市場も東京の先物市場も価格は変動するのではないのかね」
「おっしゃる通りです。シカゴ相場の下落や円高・ドル安といった状況では輸入採算も当然下がります。ただ先ほど挙げた例からすると、東京一般大豆の期近12月限を納会で受ける際、輸入採算が買いポジションを建てた時点に比べて2,000円下がっていたとしても、なお3,000円以上割安で現物を調達できたことになります。また逆に輸入採算が上がっていれば、割安の度合いは一層大きくなります」

「だがそれとは逆にシカゴ市場が一段安となり、輸入採算が建玉時点に比べて較べて大きく下がると、結果として高く仕入れたことになりはしないか」
「そのリスクはあります。しかし仕入れの手段を多様化することでコストを抑えるチャンスも出てきます。可能性があることはトライする価値があると思います」

「そうだとしても、うちには付き合いのある輸入商社があるじゃないか。そんなことをして大丈夫なのか」
「はい。輸入商社から買っている分を除く数量を念頭に置いており、決して原料の調達を先物市場に大きく依存するわけではありません。最重要に考えているのは安定的な原料調達です。しかしその一方で、少しでもコストを下げる可能性をお示しすることが本日のプレゼンテーションのポイントです。ご案内の通り、いま搾油業界は大手メーカーと中堅以下の住み分けができています。大手がデパートだとすれば中堅以下はさしずめスーパーです。うちはそうしたスーパーと勝負しなければなりません。大手ではないわが社が生き残る術として、先物市場の活用もひとつの手段ではないかと考えました」

「渋谷君、君が会社のために何とか原料コストを削減したいという気持ちは良く分かった。ただ先物市場の利用はもう少し時間をかけて検討した方がいいのではないのかね」

この会議では最終的な結論は出なかった。コスト削減を目的とした先物市場の活用に大塚常務こそ賛同したものの、まだ役員会のレベルでは保留ということになった。しかし渋谷は自分の伝えるべきことは伝えたと思い、清々しい気分で会議をあとにした。

その日、渋谷は定時で仕事を切り上げ家に帰った。
「ただいま」と言って玄関を開けると、リビングから妻、久美子の「お帰りなさい」という声が返ってきた。

一人娘の美穂はいつも帰りの遅い父親が夕食前に帰宅したことにびっくりした様子で自分の部屋から出てきて「お父さん、お帰りなさい。こんなに早く家に帰ってくるなんて病気なの」と聞いてきた。
久美子も「ホント、あなたどうしたの」と言った。

「いや別にどこも具合は悪くないよ。原料コスト削減の提案も今日の会議で一区切りついたから今日くらい早く帰ってもいいだろうと思ったんだ」
「そうなんだ。それじゃ、久しぶりに平日に家族揃って晩ご飯が食べられるわね」と久美子はうれしそうに言った。