5.先物市場を使って先渡し契約

中島がプラチナの現物を手当てしたのと同じ頃、商社マンである秋田は前引けを終えた後のデスクの前で、今夜のスケジュールチェックをしていた。
その時、秋田のデスクの電話が鳴った。

「お世話になっております。ジューン・ブライドの長谷部です」
「どうも、長谷部さん。こちらこそ、いつもお世話になってます」


「ジューン・ブライド」は結婚指輪を得意とする宝飾メーカーで、長谷部は資源調達部長である。貴金属の手当てを一手に任されているため、価格動向や知識も深い。また宝飾業界に対する顔も広く、秋田にとっては中島と並んで宝飾業界の現状を教えてもらえる相手だ。

ジューン・ブライドはプラチナ現物調達の大半を先物市場で継続して行い、納会(注6)が来るたびに現物を受け取っている数少ないメーカーである。そして、足りない量は、多くの宝飾メーカーがそうであるように、当用買いをしている。

「いつものように、プラチナの買い予約を10枚しておきたいのです。上昇ペースが少し速いようですが、秋田さんはこの上昇を率直にどう思われますか」

この時、現物価格の指標となる東工取プラチナ先物の当限価格は5,240円。しかしプラチナは目先の供給ひっ迫感などから当限価格が高く、期先になるにつれて安くなるという逆ザヤ(注7)状態となっていたため、先限である10月限は5,160円前後で推移していた。


「そうですね、状況自体に大きな変化はないのですが、私も最近の上昇ペースには正直、少しあきれているところがあります。10月限の価格としては5,150円前後が底固い水準と思われますが。どういたしましょうか」
「そうですね。では秋田さん、10月限を5,160円で10枚買いお願いします」

長谷部は、先物市場を現物調達の場として割り切っているため、目先の変動に左右されることもなく、いつも確実に成立すると思われる売買注文を出してくる。

「PT 10月 指値 5,160 10枚 買い」
秋田もメモをとりながら、確認のために復唱した。

「ありがとうございます。では10月限5,160円で10枚の買い注文を出しときます。8月限は4,560円で10枚の買いでしたね」
「そうです。それに6月限が4,940円で20枚、4月限は4,890円で20枚、2月限が4,740円で10枚、12月限は4,210円で10枚です」

長谷部は紙を見ずに答えた。頭の中にはすべての売買注文の値段が入っている。

「ありがとうございます。まちがいありません。ところで、先日、学生時代の友人と話をして、宝飾業界は今、貴金属の価格高騰で業界全体が厳しい、との話を聞かされましたが、御社はあまり景気に左右されている感じは受けませんね」

秋田は商社マンらしく中島から聞いた話の裏づけをとるため、日ごろから仕事上の付き合いのある長谷部にも聞いてみた。

「おっしゃる通り、純粋なジュエリーになるとやはり厳しいとの話は聞きます。しかし、私どもは結婚指輪とその輸出を得意としておりますので、なんとかやっていける状態です」
「なるほど。結婚指輪とその輸出というのが、キーポイントなんですね」
「結婚指輪だけということではないのですが、まあそうですね。純粋なジュエリーになると、秋田さんもご存知の通り非常に景気に左右されやすいんです」
「友人も同じようなことを言ってました」
「実は日本では、毎年コンスタントに70万組以上のカップルが誕生しています。しかしお隣中国ではなんと800万組です」

秋田は中国の800万組という数字に驚きながらも、日本の年間70万組という数字にも大きな市場であると痛感した。

実際の日本の年間結婚総数は、第2次結婚ブームとなった昭和47年の110万組をピークに減少傾向にある。そして平成に入ってからはおおむね76〜80万組の水準を維持してきたが、平成15年からは再び減少傾向が鮮明となり、平成17年には71万4,265組まで落ち込んでいるのだった。結婚人数が減少している背景には、団塊ジュニアの結婚が一服しつつあることや少子化の影響があった。


しかしその一方で、中国はいまや世界最大の需要国になったことからも分かるように、プラチナ・ジュエリーが育つ土壌がある。しかも結婚指輪の購入率は現在でも数パーセントとマーケットはまさにこれから成長していく段階にある。

「日本の年間70万組だけでも驚きですが、中国は800万組ですか。婚約指輪もありますし、結婚指輪はそれこそペアになりますし」


「おっしゃるとおりです。それにブライダル市場は、国や民間の統計を利用することによって、ある程度は月ごとのカップル数などを計算できる仕組みです」
「となると、おのずと毎月の販売量もある程度は予測可能というわけなんですね」

秋田はジューン・ブライドが先物市場を利用し続ける理由に改めて納得した。

「おっしゃる通りです。ですからあらかじめ年間の販売スケジュールとともに、月ごとの販売量と手当ての量を計画できるのです」
「なるほど。では、ジューン・ブライドさんがいつも4・6月限に買い予約を多くしていたのは、9月からの中国の婚礼需要に向けた手当ても入っていたのですね」
「そうです。最近では中国でもプラチナ人気が高くなっています。パラジウムの宝飾品は数年前は売れたのですが、今ではさっぱりです」


「たしかに一時は人気があったと聞きましたが、最近は聞きませんからね。しかし、結果論になるのですが、改めて先にプラチナの手当てをしておいて良かったですね。ここまで上がったので、おそらく他社との価格競争力もダントツになるでしょうから」
「ありがとうございます。ただ、現物調達の担当者としては、先物市場では利益も損失も出せない社内規定があるのです。ですから現状では、現物を受けるしか方法がない、という問題があります」

「なるほど」
「まあ、年間予算の範囲内でしか手当てをしませんので、価格急落に対するヘッジの必要がないと言われればそれまでですが」
「そうですね。状況によってはヘッジしたくなる気持ちはわかります。ただ、この市場の本当の使い方を知らない人にとっては、ヘッジをして損しようものなら投機だと言われかねませんから。難しいところです」

秋田はそう答え、いつものようにお互いに挨拶をして、電話を切ったのだった。

長谷部との電話を終えたあと秋田は、ある航空会社が先物市場を利用して燃料価格の高騰をヘッジしていたことで他社に大きな業績の差をつけたことを思い出した。と同時に、今後も先物市場をヘッジ・調達の場として有効に利用できる会社とそうでない会社とでは大きな差がついてくるだろう、と改めて思っていた。


日本には世界を代表する自動車メーカーや大手電機メーカーなどがある。その多くの企業は、金や銀、プラチナなどを大量に使用する実需家だ。にもかかわらず、実際に日本の先物市場をヘッジの場として、また調達の場として使っている例はわずかしかない。


6:納会  最終日の立会いのこと。当月限の最後の立会いを「当限納会」という。

7:逆ザヤ  金利や倉庫代などのコストがかさむ分だけ先限価格が当限価格よりも高いのが通常(順ザヤ)だが、その反対に当限価格よりも先限価格が安い相場のことを逆ザヤという。逆ザヤは需給ひっ迫時に起こることが多い。