1.クラシフィカドール〜東穀取のコーヒー認証作業


「おい、ブラジルでクラシフィカドールと言えば、サッカー選手の次にステータスがあるんだぞ」 「はいはい。そうでしたね(おいおい、またいつものやつが始まったよ。最近尾島さん、酔いが回るのが早くなったなあ)」 「1日に400杯もコーヒー飲んだことに比べりゃ、酒の1杯や2杯ぐらいなんだ。さあ、飲め飲め飲め!!」

無茶苦茶である。中島直久は閉口しながら付き合わされるいつものパターンとなった。中島は東京に本社のある大手コーヒーメーカー、ベストコーヒーの業務部勤務、入社5年目の若手である。 かなり酔いが回っている中年男の方は尾島孝徳で、同社の取締役業務部長である。直属の上司と部下の関係だ。年は20歳近く離れているが、中島にとっては大学の先輩でもある。おまけに帰る方向も同じということで、飲み会などでは最後まで付き合わされるハメになる。まあ、いつも尾島のおごりなので文句は言えない。それに飲んでいないときの尾島の仕事ぶりにも心酔している中島である。また、来年(2007年)2月には取引先の大手商社、北野トレーディングが主催する産地視察ツアーにも初めて同行する予定だ。

尾島はもともと北野トレーディングでコーヒー・ビジネスに長く携わり、中南米産地の駐在経験も豊富だ。ブラジルのサントス商業連盟認定のクラシフィカドール(コーヒー鑑定士)の資格も持っている。それが冒頭のせりふにつながっている。 実際、ブラジルではクラシフィカドールは人気の職業である。ただ、サントス商業連盟認定のクラシフィカドールは、以前にブラジルコーヒー院(IBC)が認定していた国家資格とは違い、日系のコーヒー関係会社が音頭をとって、駐在員や勤務している現地人の教育のために設けた民間資格である。したがって、資格ホルダーもそれほど珍しいものではない。もっとも尾島は、北野トレーディング時代に、日本人で唯一そのIBCの国家資格を持っていた上司の羽田淳平の薫陶を受けたことから、クラシフィカドールに誇りを持っている。

クラシフィカドールの資格を取るためには、約1カ月間の授業を受けなければならない。コーヒーの歴史からコーヒー植物学、さらには焙煎、販売、流通に関することまで一連のいわば「学科」の講義がある。それに加えて、焙煎機械の操作、豆の等級の検定、カップテスト(試飲)という「実技」もある。 北野トレーディングの駐在員だった尾島はおおかた年下の「同級生」たちと机を並べて授業を受けた。今でもサントスに行くと、コーヒー業者が軒を連ね、コーヒー博物館もあるキンゼ・デ・ノベンブロ(11月15日)街で、その時の「同級生」たちと話をするのが楽しみにしている。


「八重子、明日は当番だから」 「そうなの。じゃ今夜はお酒やにおいのきつい食べ物はダメね」

尾島は朝の出社前に妻の八重子にそう言った。妻も心得たものである。尾島はアルコールが入らないと、かなり神経質な性格である。自分でも時々いやになることがあるが、持って生まれた性分はなかなか直らない。人に言わせると、几帳面がスーツを着て歩いているそうだ。もちろん血液型はA型だ。だからこそ、アルコールが入ると、その反動が出るのかも知れない。

尾島が神経質になっている理由は、ほぼ年に1回の割合で順番が回ってくる東京穀物商品取引所(東穀取)のコーヒーのグレーディング(認証作業)の日が明日だからである。少なくとも百数十カップをテストすることになるため、味覚、嗅覚をベストの状態にしておく必要があるのだ。


翌日は初冬だがポカポカ陽気の小春日和となった。几帳面な尾島である。定刻の午後1時の10分前には、日本橋蛎殻町にある東穀取に入った。通常、前月末までに認証申請されたサンプルを検品して、当月の10日までに結果を知らせるという規則のため、だいたい月の上旬に認証作業を行う。

認証作業は、東穀取が委嘱した20数名の鑑定士によって輪番制で実施されている。委嘱を受けているのは、商社や焙煎業者などに属している有資格者ばかり。もちろん全員がクラシフィカドール等の鑑定士資格を持っている。通常は3名でチームを組む。この日は尾島の他に中堅焙煎業者、村瀬珈琲の山崎康雄、大手商社、北野トレーディングの早野弘だった。

「ご無沙汰しております」と尾島。 「あ、どうもお久しぶりです。やはり尾島さんが一番乗りですね。山崎さんも早野さんもまだお見えになっていません」と返してきたのは東穀取の担当者の鈴木だ。もうひとりの担当者、小田原は奥でグラインド作業に忙しい。

尾島が地下1階にある検査室に入ると、すでにコーヒーの香りが充満していた。尾島と鈴木がしばらく世間話をしているうちに、早野、山崎の順で到着した。 3人揃うと、早速欠点作業にとりかかる。これから検査終了までの2〜3時間は、検査員の間では、ほとんど私語が交わされなくなる。なお検査員に開示されているのは豆の生産国だけで、そのサンプルの所有業者は分からないようになっている。もちろん検査の中立性を保つための措置である。

欠点作業の検査項目は、水分量(12.5%以下)、豆の大きさを調べるスクリーンサイズ(サイズ15以上が50%以上かつ、サイズ14が5%未満)、外観、欠点数(石、木片、土などのきょう雑物の有無、黒豆、発酵豆、欠け豆、砕け豆、虫食い豆などの有無)、そして最後に甘みや酸味、苦味のバランスを知るためのカップテストを行う。欠点数が9点までは合格、それ以上になると値引きの対象となり、20点以上は供用品として不合格である。ただ、過去に20点以上になったものはなく、9点以上となるのも1割程度だ。


検査員が欠点作業を行っている間、東穀取の鈴木と小田原は、焙煎作業、グランイド作業、抽出からカップに注ぐ作業で忙しい。サンプル数が多いためこれもかなりの重労働である。この間、部屋の中は静かで、グラインドの音とやかんが沸騰する音が聞こえるぐらいである。

欠点作業が終わり、カップテストに入ると、部屋の中がやや騒がしくなる。中華料理店によくあるような大きな回転テーブルの上にカップが並べられる。適度な間隔で水だけのカップも並べられる。口の中をすすぐためである。検査員はこれを囲んで座り、いっぱいに注がれたコーヒーを良く混ぜて、上に浮いた泡をとり、音を立てて一気に吸い込む。ワインでもそうだが、そうすると、口の中に霧状にコーヒーが広がり、味がよく分かるそうだ。それが始まると、部屋の中は、その「シュッ、シュッ」という音で充満する。もちろん、水を入れたカップで口の中を洗浄しながらの作業である。尾島は飲み込むことはないが、中には飲み込む人もいるようである。

これで土臭、発酵臭、カビ臭、リオ臭(ヨードホルムのような臭い)がないかチェックする。検査での最終的な合否の判断は取引所が行い、検品者がお互いのチェックシートを見ることもない。



帰りに尾島は山崎と一緒になった。二人は既知の間柄で、来年2月にも一緒に産地視察ツアーに行く予定である。山崎は東京暮らしが長いようだが、関西弁が抜けきれない。歩きながら「尾島さんはこれから帰社されまっか」と尋ねてきた。 「はい、貧乏ひまなしで。それにしても、山崎さんもご存知とは思いますが、これだけグレードのいい豆が認証されているのに、焙煎業者の受け渡し参加が少ないのはなぜでしょうかね」 「そりゃねえ。品質に問題なく、また現物価格よりおおむね安く納会(*注1)しているのはよう分かってまっけどね…」と口を濁した後、「尾島さんのところみたいな大手は、東穀取を利用するのはかなりおいしいですよね」と続けた。 「まあ、それほどおいしいのかどうかは分かりませんが。東穀取をよく利用させてもらっているのは確かです」 「私もいろいろ勉強はしてますし、東穀取の相場もニューヨークと同じぐらいに見てはいますけどね。せめてニューヨークと同じように認証在庫が発表されれば、使いたい焙煎業者も増えるか知れへんなあ」 「そうですね。私もその意見には賛成です。じゃ、私はここから社に戻りますので失礼します」 尾島らは鎧橋を渡り、東京メトロの茅場町駅まで歩いてきた。 「じゃ、また。今度お会いするのは、来年2月の視察ツアーのときですね」

尾島は電車に乗ってから、山崎の言葉を思い出していた。これまで異口同音に焙煎業者仲間から聞いた言葉である。 ともあれ、このカップテストの日は夕食の味が違うし、酒もうまくない。一種の職業病である。

*注1 納会:最終立会い日のこと。この日までにポジションを反対売買しないと、現物の受け渡しで決済することになる。