5.ヘッジ売り

北野トレーディングは総合商社の中でもコーヒーの取扱量では大手に数えられている。ニューヨーク、サントス、ロッテルダム、東京を拠点として世界的にコーヒー・ビジネスを展開している。日本向けの年間輸入量は約100万袋に上る。
そしてこの現物取引のリスクヘッジやアービトラージ(市場間の裁定取引)のために、ニューヨーク、ロンドン、ブラジルなど、世界の先物市場を活発に利用している。そこには当然、東穀取も含まれる。もっともアービトラージをやっている部署は派生商品部で、中川の部署とは異なる。それに市場の大きさから、農産品のオペレーションは穀物を主体に行われているようだ。


中川の部署の主たるオペレーションは、基本的にはひも付きでない現物の、東穀取を利用したヘッジ売りである。全輸入量に対するヘッジ割合は企業秘密だが、仮に一般に言われている20%として計算すると、年間20万袋はヘッジする必要がある。ただ認証在庫が最大で1万袋しかないとの推定が事実だとすれば、東穀取ですべてをヘッジすることはできない理屈になる。そして、仮にこれらの数値が推定に過ぎないとしても、商社の現物取扱量に比べると、東穀取をヘッジ市場として利用している規模は極めて小さいことが分かるだろう。もっと認証在庫が増加して、商社のヘッジ利用を増加させるためには、焙煎業者の積極的な参加が必要となる。東穀取が認証在庫を増やすためには焙煎業者の積極的な市場参加が不可欠だし、それを経て商社のヘッジ利用がより活発化するはずだ。この焙煎業者と商社の関係は、ニワトリとタマゴの関係と同じなのかも知れない。

同じ2月の中頃、北野トレーディングの中川のところに、同社が売買を委託している商品取引員の1社である昭和フューチャーズ法人部の斉藤恒男から電話が入った。ほぼ週1回の情報交換である。

「当限はどうなってるの?」と中川。
「このところベストコーヒーが買い玉を建玉制限いっぱいの100枚まで建てていたのですが、今回はその動きはないようです。受け前提の買い玉は富重商事の50枚だけですね」と斉藤。
「まぁ尾島さんところはインスタントコーヒー・メーカーで、中米産マイルド(水洗式アラビカ)なら何でもオッケーなわけだが。それにベストコーヒー・コリアにも回しているようだし。でも今回は受けないのか。で、渡し方は?」
「御社の200枚、北商産業50枚ですね。現在の票読みは」
「いつも3月限は各社期末の“在庫整理”があるから多めになるけれど、今回は少ないね。いずれにせよ買いハナ(受け方が少ない)納会か。うちは渡し切るつもりだったが、この受け腰の弱さだと親引け(渡すつもりの売り玉を決済すること)になるかも知れないね」
「では当限は急落ですか」
「いや、それは分からない」

この2人の会話は東京アラビカコーヒー市場の現況をよく映している。焙煎業者は生産国や種類・銘柄を細かく指定した上で豆を欲しがる。しかし東穀取の受け渡しルールでは「中米産マイルド」と、いわば大枠が定められているに過ぎない。だから焙煎業者は東穀取の利用に二の足を踏んでしまう。結果として受け渡しに顔を連ねるのは大手商社、インスタントコーヒー・メーカーなどに限られてしまう。もちろん焙煎業者のスポット的な利用もあるが、あまり定期的な利用にはつながらない。
このような状況を反映して、東京アラビカ市場は順ザヤ(期近が安くて期先が高い)が常態化している。いわゆるサヤすべり銘柄である。

「それに当限には海外ファンドとみられる買い玉がまだ100枚も残っているので、急落必至ですよ」
「まあ、ほどほどにね。ニューヨークではファンドが受けるのもめずらしくないよ。国内でやる可能性はゼロだろうけど」

その後、斉藤の予想通り、3月限は16,440円の急落納会。受け渡しも40枚が成立しただけだった。北野トレーディングは170枚、北商産業は40枚を渡さずに買い戻した(差金決済)ことになる。