7.山崎の決断

月日は流れて、8月の上旬の盛夏。この時期、地球の反対側にあたるブラジル産地は冬で、降霜懸念の有無がコーヒー相場を動かす大きな材料になる。ブラジル産地では天候に神経質になる時期が年に2度ある。6〜8月にかけての冬季と、10月の開花時期である。前者では降霜の有無が注目される。仮に甚大な降霜が発生すると、再植樹が必要となり、大幅な減産が数年続く可能性も出てくる。また、後者の時期に乾燥した天気が続くと、開花および結実に障害が出て、翌年度の減産につながる。

このためコーヒートレーダーは例年この時期に神経質になるが、2007年のブラジル産地は暖冬で降霜被害の気配はまったく感じられず、8月上旬には大方のトレーダーが「今年の降霜は不発だった」と判断していた。

そのような時期、尾島の行き付けの居酒屋でささやかな「送別会」が開かれていた。10月から北野トレーディングの中川がニューヨーク支社に駐在することが決定したためである。同席者は中川、同僚で今度コーヒーチームのチームリーダーとなる川上伸行、それに尾島、中島、そして担当営業マン斉藤の5名だ。中川としては、ニューヨーク駐在経験者の尾島にいろいろ聞きたいようだ。ニューヨークに出張の経験はある。だが住むのは初めてとなるため、期待半分、不安半分のようである。


「中川君、住み家は決まったかい。君のような独身者はマンハッタンの方がいいだろう。僕は郊外に住んでいたけれど。いずれにせよオフィスがミッドタウンのど真ん中にあるので、交通の便はいいよ」
「そうですね。ビルの中に北野トレーディングのフロアへの直通エレベーターがあったのにはビックリしましたが」
「確か20階以上は北野トレーディングの借り切りだったかな」
「ニューヨークでは、先物市場のオペレーションが主業務となるみたいです」
「まあ、何事も勉強だ。そのうちブラジルにも行かされるぞ」

ひとしきりニューヨークや業務を引き継ぐ川上についての話が続いた後、尾島が斉藤に尋ねた。

「ところで村瀬珈琲さんへの営業はどうなりましたか。4月ごろ山崎さんをご紹介しましたが…」
「その節はありがとうございました。かなり手ごたえがありました。認証在庫が発表されないことを気にされていましたが、東穀取さんの検査員を勤めておられることもあり、先物市場の利用には興味津々という印象でした。いつも当限の価格を注意しておられるともおっしゃっていました。今はリポートを送らせていただいています」

酒席ということで、それ以上に立ち入った話にはならなかったが、斉藤は中川がニューヨーク赴任直前の最後の受け渡しで、コロンビア産を渡すことを確認した。

翌日、斉藤は山崎に電話した。


「ごぶさたしております、山崎さん。9月限の票読みは渡し方が15枚だけで、受け方はいないようです。それから弊社をご利用いただいている大手商社さんにお聞きしたところ、渡し物は全部コロンビアのスプレモのようです。現在、東穀取の期近はかなり割安となっています」
「そう、どれぐらい安いの?」
「今、当限が約20,000円ですから、キロあたりおよそ290円、格上プレミアムの10円を支払っても300円というところです。現物価格は480円以上していますよね」
「うーん、かなり安いね。15枚ということは750袋か。当面はスプレモを買わなくてもよくなるな。とにかく稟議にかけてみよう」

山崎の日ごろの根回しもあり、何よりコスト削減の意識の高まりで、社内稟議はあっさりと通った(その手続きの間も相場は下落が続いた)。昭和フューチャーズに口座を開いて、9月上旬にアラビカ当限に15枚、さらに安い18,000円台前半で3回に分けて買い玉が建てられた。
15日の納会は17,000円ちょうどまで急落した。

9月下旬、尾島は斉藤から電話を受けた。
「きのう山崎さんから感謝の電話をいただきました。アドバイスにしたがって、安く仕入れることができたと。これからも先物市場を利用したいとおっしゃっていただきました」

「そうか。それは良かった。これで食わず嫌いの焙煎業者がひとつ減ったということか。まだまだ道は長いけれどもな。もっとも、みんなが東穀取で受けるようになると価格が上がってうちのアドバンテージもなくなるが…。来週のグレーディングのとき、山崎さんに受けた感想を聞いてみよう」
言葉とは裏腹に尾島の声は笑いを含んでいた。

9月とはいえ、まだきつい日差しの中、尾島はいつものように中島を誘って昼食に出た。