2.絶妙のタイミング

2007年の年明け早々に、尾島は商品取引員、昭和フューチャーズ法人部の斉藤恒男に電話をかけた。

ベストコーヒーは、東穀取でアラビカを定期的に現受け(*注2)している。期近(*注3)の限月に最大100枚(5,000袋)を建てるが、50枚の時もあるし、まったく建てないこともある。それはその時の現物の調達状況次第だ。 同社の買い付けのかなりの部分は、ニューヨーク市場を使ったプライス・フィキシング(値決め)取引で長期的に行われており、東穀取での受け渡しはスポット的な調達の域を出ない。それも渡されるオリジン(産地)にこだわらない同社だからできることである。

尾島は、東穀取の現受けの買い、ニューヨークを使ったプライス・フィキシングと、四六時中にわたって両市場の値動きを見ているが、いずれにおいても相場の底値を見極める必要があり、価格の上昇より下落により敏感に反応するくせがついている。2006年11〜12月にかけては、東穀取の期近相場は20,000円を超えることが多く、なかなか買い参入ができずに半ば諦めかけていた。通常であれば、2番限(*注4)にいる時に仕掛けるのだが、今回は納会月に入っても仕掛けきれずにいた。


「あけましておめでとう。今年もよろしく」 「あ、こちらこそおめでとうございます。今年もよろしくお願いします」 「早速だが、年初から期近が崩れてきたので、19,000円割れで5,000袋(100枚)仕掛けたい。現在の票読みは?」 「現在のところ、渡し方が北野トレーディング70枚と光洋商事50枚の合計で120枚というところですね。受け方はゼロです」 「じゃ、ちょうどいいところだね。よろしく頼むよ。例年1月限と3月限は商社の在庫整理で渡し物が多くなるのだが、やはり予想通りか」 「昨年後半の相場の上伸で、商社もひも付き(顧客が決まっている)じゃない輸入を増やしたようですね」 「なるほど」 「現状の商いだと、一度に100枚の買い注文を入れたら相場が急伸します。ですから10枚ずつ指値で入れていきます。うまくいけば来週前半には全部仕込めると思います」 「分かった。じゃあよろしく」


尾島は受話器を置いてからコンピュータで前引け(*注5)の値段を見た。アラビカ(*注6)は19,490円だ。「(キロあたり)282円なら、現在の中米マイルドの価格と比較すると、キロあたり200円近くも安い。まあ、いい買い物だ。おい中島、昼めし食いにいくか」 「はい」

11時45分でちょっと早いが、尾島と中島は会社のそばにある「いけす道場」という魚のうまい割烹店に入った。

「また今月も東穀取で受けるぞ。さっき電話した」と尾島は大好物の刺身定食に箸を付けながら口を開いた。 「うちの一手受けですか。これだけ安いのに食指の伸びる焙煎業者はいないんですかね」と鉄火丼を頼んだ中島が答える。 「そう言えば、村瀬珈琲の山崎さん。去年グレーディングで会ったときに、けっこう東穀取の受け渡しに興味があるような口ぶりだったけどな。うちをうらやましがっていたし、いろいろ勉強しているとも言っていた」 「ブレンドに使うのなら受けてもそれほど問題はないと思うのですがね。それに安く買えるのは魅力のはずですが」 「まあ食わず嫌いのところがあって、業界じゃうちは特別だ。普通の焙煎業者はプライス・フィキシングのためにニューヨークの値段は見ているが、東穀取の値段を気にしているのは少数派だからな。でも山崎さんみたいな人が増えれば、東穀取を利用したい焙煎業者も増えるだろう」 「そうですよね。焙煎業者にとっては、買い付けの選択枝が増えるわけですから。使えるカードは使った方がいいですよね」

なお、結果的にこの買い注文は絶好のタイミングだった。9日から相場は急落して、10日には18,570円の安値を付けた。結局、平均買い値およそ18,800円で100枚を買い仕込むことができた。上出来である。


その後17日の納会値段は18,450円で決着した。受け渡し枚数120枚。渡し方は北野トレーディング70枚、光洋商事50枚、受け方はベストコーヒー100枚、さらに初登場の焙煎業者、ハニー・ロースターが20枚だった。結局、キロ当たり平均仕入れ値は約272円。尾島の当初の思惑よりさらに10円安くなった。 しかも渡ってきたのはメキシコ産HGと、格上のコロンビア産エクセルソである。キロ当たり10円のプレミアムを払ってもおいしい商売となった。コロンビア産は市中のスポットではキロ当たり500円の値がついていた。

今回は相場の上昇が続いたことで、100枚の大量受けは無理かと思っていたが、時期的な商社の「在庫整理」売りが尾島に味方したことになる。一時は20,000円台(1袋=69kgあたり)での買いも考えた尾島である。もっとも、相場であるから毎回このようにうまくゆくものでもない。 尾島は久々にいい仕事をした充実感を感じながら、目前に迫った中米グアテマラ産地視察ツアーのレクチャーをするという名目で、中島を飲みに誘った。中島も尾島の気持ちをうれしく思って、今夜の酒の強要を覚悟した。

*注2 現受け:買いポジションを納会まで維持して、受け渡し日に現金を用意して商品を受け取ること。 *注3 期近:最終的に決済しなければならない月のことを限月(げんげつ)といい、手前の期限の近い限月を期近(きぢか)という。先の遠い限月は期先(きさき)。一番先の限月を先限(さきぎり)という。 *注4 2番限:期近から2番目の限月。 *注5 前引け:午前中の最終取引でついた値段。 *注6 アラビカ:東穀取ではアラビカ種とロブスタ種の2種類のコーヒー豆を取引している。1袋はそれぞれ69キロと100キロ。