1.異動
7.予想外の納会
8.資源獲得競争は続く


6.ファーストディール

「もうすぐ9時だ。立会いが始まる。せっかくだ、試しに6月の250トンの買残を売りヘッジしてみろ」
突然の坂田の言葉に直前に感じた安堵感は一瞬で吹っ飛んだ。ディーリング自体は慣れている。そして、そのためにこのチームにきた。資金為替部では、1日に数十本(1本は100万ドル)の売買をした経験もある。ただ、それでもファーストディールは緊張する。目の前にある、取引所のこの専用端末にオーダーを打ち込むだけなのだが、指がしびれたように感じる。いや、心が言うことを聞かないというべきか。
「どうした。誰にでも初めてはある。お前の後ろには俺がいる。心配するな」
坂田のひと言でスイッチが入った。

頭の中で計算を始めた。数量250トン。東工取のゴム先物の取引単位は1枚=5トンなので枚数は50枚。ポジション表をみると、この250トンの平均コストはキロあたり285.5円になっている。いまの4月限の値段は290.0円なので、ここで売りを50枚建てれば、キロ当たり4.5円の粗利益を確保したことになる。一通りの計算が終わり、頭の整理がついたころ坂田がつぶやいた。

「ちょっと厄介だな」
「ですね」
「お前、気付いているのか」
「えぇ、板が薄い」
「さすがだな。だてに為替ディーラーを7年もやっていない」
「でも、なんとかしますよ」
こういう時のためにここに呼ばれたのだと心の中でつぶやいた。

板の状況は、売りと買いが各価格ごとに数枚ずつとなっている。いま、まとまった売りを出すと、買いが足りなくなって相場は一気に下落する可能性が高い。外為市場ではあり得ない薄さだが、そんなことを言っても始まらない。幸い、原油価格は上昇しているので、きょうのゴム相場も買い気配は強い。ここは小刻みに売りを出していくしかない。ただそうした場合、買い方はどう感じるか。買っても買っても売りが出てくるようだと、上値の重さを嫌気する可能性がある。そして売りに回ることを考えるだろう。ここは、枚数も時間も分散させて勝負する必要がある。つまり持久戦になるということだ。

――午前10時?


立会い開始から1時間経った。291.0円で5枚、292.0円で5枚、292.5円で10枚さばけた。残りはあと30枚。この時点で6月限の出来高は50枚。つまりここまでの全取引の4割に絡んでいることになる。

勘のいいヤツならそろそろ何かを嗅ぎ取るころだろう。板を見ても292.3円に2枚の買い、293.0円に4枚の売りとなっており、ここ数分、似たような状況が続いている。こう着状態に入ってきた。ここで無理に売れば、買い手が引いてくるだろう。辛抱だ、辛抱だと自分に言い聞かせた。

「6月限はもう期近から3番目になるので、商いは薄いのではないかと予想していました。それがこれほどとは…」
なかばあきれて言った。
「3番目…。うん。3番限は、多い時なら600枚くらいできる(約定する)が、少ないと100枚以下になる。きょうのこの感じだと出来高は300枚くらいに伸びるだろう。岡田なら、なんとか残りもこなせるだろう」
坂田の言葉は “新人”を相手に発したようには聞こえなかった。

「!」
その時だった。ゴム相場が突然上昇を開始した。モニター画面の値段を示す数字が目まぐるしく点滅する。
「一体何があったんだ」
坂田が大きな体を屈めるようにしてモニターを覗き込んできた。
「外電で、ゴム工場がテロによる放火で火災と流れています」
それまで静かだった真木が興奮した口調で言った。
「まだ、ヘッドラインだけで詳細は不明です」


おい、おい、こちらの端末にはそんな情報は流れていないぞと怪訝な顔をしていると、坂田がナゾ解きをしてくれた。
「真木は英語で流れる第一報をみているんだ。マーケットのニュースは、まずそのニュースが発生した土地の言語、そして英語で発信される。その英語のニュースを和訳するから情報が遅れる。特に天然ゴムのニュースなどは、その他の金融情報に比べるとニーズが少ないので和訳はさらに遅れる。しかし、うちには真木がいる。真木はタイ語もイケるんだ」

おお、なんと便利なヒトよ。真木さんてばスゴ過ぎるぞと心の中で最大の賛辞を送りながら、頭を相場にスイッチした。
「ってことは、いま買っている連中は早耳筋ってことになるわけか」
つい独り言が口をついて出た。ということは、ここがチャンスだ。どんな事実であれ、放火事件の詳細がわかってからだと価格は下落を始める。“うわさで買って、事実で売る”という相場格言もある。
「ここはガンガン売っていきますよ」
そう宣言した。横にいた坂田はうんと大きく頷いた。

東工取の注文入力端末のテンキーを指の腹で撫ぜたら、不思議なことにゴム工場のあのニオイの記憶がよみがえってきた。どうやら鼻の奥にニオイの元が染みついてしまったらしい。いまごろ権田さんは情報収集にかけずり回っているのだろうと思いながら、295円、296円、297円と値を切り上げていくゴム先物6月限に、2枚、3枚と、小刻みに成り行きの売りをはめていった。

6月限はあっという間に300円に達した。残りの30枚もすべて売りつなげた。平均コストは297.5円。キロあたり12円もの粗利益を確定できた。

「岡田くん、すごいディールだったね」
真木が握手を求めてきた。照れながらそれに応じていると、坂田さんも加わった。
「岡田、お前には運もあるな。こんな都合のいい材料、めったにお目にかかれないぞ」
「運って言わないでください。これも実力のうちですよ」
ちょっぴりおどけて見せた。
「実は、前の部署で伊藤さんに教わったんです。突発的な材料が出た時は、すぐにその流れに乗るか、ためらいがあるなら全くやらないかだと。自分の考えがまとまるまで、相場は待ってくれないって」
「なるほど。真木、俺たちはいいディーラーをパートナーに迎えたようだな」
坂田は満足げな顔をみせた。


「さっきの放火事件だけど、いま地元のニュースで、空の倉庫が燃えただけでゴムは燃えていないと報じています」
5分ほどして真木がそう伝えてきた。

ふぅ、と息をつきながらモニターを眺めていると、今度は徐々に売りが優勢となっていった。まるでボールを空に向かって投げ上げたようだ。初めは勢いが強く、やがて弱くなっていく。ピークに達すると今度はゆっくりと落ちはじめ、次第に速度を増していく。いまの相場がまさにそれだった。300円を超えた時点で、モニターの数字は上昇が緩やかになり、301円を超えた時点から下げが目に見えるようになってきた。

300円90銭、80銭、90銭、80銭、70銭、60銭、70銭、50銭、30銭――。
今度は300円をはさんで一進一退の攻防。まるで綱引きを見ているようだ。しかし300円を下回ると下落のステップが明らかに大きくなっていった。

299円90銭、60銭、70銭、40銭、50銭、20銭――。

さらに295円を下抜くと一気に291円までの急落。放火のニュースを真木が伝えてから、わずか15分あまりで7円上げて9円下げたことになる。
「相場は誰の都合も勘案してくれないなぁ」
自嘲的に笑ってみた。