2.納会



「またファンドの仕業らしいな」

10月上旬のある日、乱高下するガソリンの先物市場を眺めて、渡辺洋一はため息をついた。

世界の指標価格となるニューヨーク先物市場の原油価格は80ドル超まで上昇。今日は国内のガソリン先物市場では500円前後の上げが見込まれたが、一時1,500円を超す急騰となり、その後、高値から1,000円も下げてきた。こうした価格の乱高下の背景に海外のファンドの影がちらつく。


「急騰したと思ったら、買い方が利食いに動いたんじゃないか」 「どうやらそのようです。目先の上げ下げを狙うディーラーたちも短期の売買を繰り返しているようです」

渡辺はガソリンスタンドを幅広く経営する大西商事の需給課長として、ガソリン・灯油などの製品の仕入れや製品のデリバリー(配達)の責任者の立場にある。元々石油の仕入れやデリバリーのシステム開発をしていた元システムエンジニア(SE)という変わり種だ。

SEを5年ほどやり、「もっと実務に近いところで仕事をしたい」という希望で12年前に大西商事に中途入社してきた。

「毎日毎日、よくこう乱高下するものですね」
部下の湯島も呆れ顔で話しかけてくる。湯島は大卒で入社6年目、昨年主任に昇格したばかりだ。学生時代はバイトに明け暮れ、ガソリンスタンドで働いた経験もある。今でも愛車のオイル交換は自分でやるという。大西商事は本社の1階がガソリンスタンドでもあり、そこでたまにオイル交換をやっている。

つきあいのある商品取引員である昭和フューチャーズの斉藤から湯島に電話が入った。 「今日の乱高下は海外ファンド筋の買いや、買い方の手じまいの動きが乱高下の要因です。ファンド勢が買ってきて大きく上げた後に、利食い売りから下落しています」
「ファンドが買って上げたわけ?」
「上げたときはそのようです。その後はディーラーなど買い方が利食い売りに動いて下げて来ました」
「おたくも売り浴びせてるんじゃないの?」
「いえいえ、そんなことしてないですよ。ガソリン当限(11月限)や12月限が65,000円を割って崩れていますけど買いますか」
「まだ下げそうじゃない。もう少し様子を見てみて、まだ下げるようなら考えます」



昭和フューチャーズは商品取引員の中でも老舗で、石油関係の現物の取扱量が大きい。その上、投機玉の実情などにも詳しく、なかなか頼りになる存在だ。

ガソリンは現物市場では67,000円前後で推移している。わずか1カ月ほど前には60,000円前後だったものが急騰してきた。ニューヨーク市場を始めとする海外の原油相場の高騰も大きな影響だが、秋口には国内の製油所が定期修理(設備の整備)に入ったことや、外資系元売りの製油所トラブルから業転市場(業者間での現物の取引市場)では出物薄となり、元売りや商社が手当てを急いだことから現物価格は高騰してきた。灯油も1カ月前に62,000円だったものが7万円まで跳ね上がっている。

業転市場で製品の主要な供給元と言われていた外資系元売りの製油所トラブルが現物市場の上昇に大きな影響を及ぼしたが、トラブルで止まっていた製油所もようやく稼動を再開しており、ガソリンの現物価格は頭打ちに転じた。


ただ、灯油は冬場の需要期を控えていることで、ガソリンに比べて堅調な動きだ。これは今年に限らず毎年のことであり、先物市場でもこれから冬場にかけてはガソリンに比べて灯油の方が相対的に強い動きを見せる。

元売りも秋口から冬にかけて季節的に商売の軸足をガソリンから灯油にシフトしてくる傾向がある。

「今の時点では、灯油の需要も本格化してないので、どれだけ手当てしておくかだな」
渡辺は湯島に話しかけた。これまでも業転価格に比べて数千円程度割安な水準まで下げると、ガソリンや灯油の先物を買い付けている。ただし、あまり先の価格は見通しにくいため、買うのは当限を中心に期近が多い。

「ただ、今日のような急落場面では先物市場で買い拾っておくのは得策じゃないでしょうか。海外原油相場は高騰していますしね」
「冬場は卸売りも含めて、月間400〜500klの灯油を販売しているから、12月限や1月限を67,000円台で買えるようなら、7万円の業転に比べてお買い得だろうね」
「ガソリンはどうします?」

ガソリンは夏場に需要のピークを迎えるが、お歳暮シーズンの12月までは、夏場と違って需要は盛り上がらない。店頭価格が高値圏にあることで、自社のスタンドでも売れ行きは伸び悩んでいる。


「ガソリンも11月限や12月限が64,000円台で買えるなら業転に比べて割安だ。この水準で買えるなら買っておこう」
「元売りは来月、系列向けの仕切り価格を値上げする意向ですし、需要が減っても安値で手当てできれば、他のガソリンスタンドに比べて、値下げ余地ができますからね」 「先行きは読みにくいから、とりあえず今日は、ガソリンは当限(11月限)だけ、灯油は12月限だけにしよう」

渡辺の指示を受けて、湯島はガソリン当限を10枚64,000円で買い付けることにした。灯油は12月限を67,000円で10枚買う予定だ。昭和フューチャーズの担当者の斉藤へ電話して注文を伝える。1枚は10キロリットルに相当する。なお、11月限や12月限などのようにこの時点で先に期日が到来するものを期近と呼び、3月限や4月限のように5〜6カ月先に期日が到来するものを期先という。

「斉藤さん。ガソリン当限を64,000円の指値(さしね:価格に条件をつける売買注文)で10枚買い」
「了解しました。ただ、今少し上げてきているので、指値が通るかどうかわかりません」
「えっ、さっきまで64,000円を割り込んでいたけど」
「御社と同様に安値で買ってくる指値が入っているようです」
「何とか、買い付けて欲しいな」
「指値を出しておきます。灯油はどうします?」
「灯油は12月限を67,000円の指値で10枚買い」
「了解しました。灯油は指値が通りそうです」

10分後に斉藤から電話が入った。
「灯油の12月限10枚、67,000円で買えました。ガソリンは5枚だけ買えました」
「何とか、あと5枚買えないかな」
「相場の値動き次第なので、お約束はできませんよ」
「わかってるけど、何とかしてよ」

相場のモニターではガソリンの当限は64,150円となっている。64,000円割れのあとは値を戻し、その後はもみ合っている。

「ガソリンは指値が通らないようなら、指値を変更するかどうか検討して連絡するよ」
「了解しました。また後ほど電話します」

いくら安値を買い拾うといっても、円相場が大幅な円高に振れると国内では下落要因となる。おまけに史上最高値圏にある原油が急落するようなら、今日の安値の買いが必ずしも「お買い得」とはならない。ただ、現在の業転価格と比較すると割安だ。

思惑通り安値で買えて、その後、上昇して利益になった場合は、現受け(先物で買った玉を現物で受け取ること)せずに反対売買して利益を出すこともある。あくまでも安値での買いヘッジがメインなので、投機的な売買はしない。

午後に入り、渡辺は斉藤に電話した。
「ガソリンの残り5枚買えましたか?」
「下げてきたので、2枚買い注文が通りました」
「全部は買えてないの?」
「御社と同様に64,000円には押し目買いの指値が結構入っているので、全部はまだです」
「何とか頼むよ」

今朝は今日あわてて全て買い付けなくてもいいと思っていたが、予定枚数がなかなか買えないことで、湯島は少々苛立ち、電話をギュッと握りしめていた。

取引中は冷静にならなくてはいけないと自分に言い聞かせつつ、コーヒーカップに手を伸ばそうとしたとき、斉藤が約定成立を伝えてきた。
「あっ、残り3枚買えました。価格は63,980円に下げています」
「とりあえず、買えてよかった」
「ありがとうございました」

湯島は、ガソリン、灯油ともに予定通りに指値で買えたでホッと胸をなでおろして、渡辺に報告した。
「ガソリン当限10枚、灯油12月限10枚予定通り買えました」
「わかった。ありがとう。なかなか買えずにちょっと慌てたな」
「ええ、でもちゃんと買えて一安心です」

社長の西が渡辺に話しかけてきた。西は大西商事の創業者で、見るからに叩き上げといった風貌だ。なお、大西商事という社名は社長の西という苗字に由来する。西は少々口が悪いが、部下や取引先への人情は厚い。脂ぎった顔でいかにも「中小企業のオヤジ」だが、業界ではやり手として知られている。

「渡辺、今日も大きく下げたところで買ってるのか?」
「はい。急落したときなどは業転に比べて大幅な割安になることもあるので、コツコツ買っていきます。それにしてもこの乱高下には本当に参ります。神経がすり減ります」
ついつい渡辺はぼやいてしまう。まあ、いつものことなのだが。
「今のように競争が激しいと仕入先を多様化して、少しでも安く買わなきゃならない。よろしく頼むぞ」
「了解しました。先物市場は重要な仕入先のひとつですからね」
「お前たちも成長したな。とにかくうまくやってくれよ。俺は2006年1月の灯油の暴落で大損したからな」

2005年12月に灯油が業転市場で玉不足で急騰して、業転での手当てができなかったので、仕方なく高値で先物を買ったら暴落したことがある。このときに西は数千万円の損を被った。それ以降、売買の判断を冷静な渡辺に任せている。

今年は原油価格の高騰でレギュラーガソリンの店頭価格は145円程度まで高騰している。実際、大西商事では近隣のスタンドとの競争も激しいことで、138〜140円前後までしか小売価格を上げることができないでいる。


その分、先物市場で業転市場に対する価格優位性があれば、先物を買って現物を受け取る買いヘッジのオペレーションで仕入れコストを削減しようと日夜努力している。

大西商事はどこの元売り系列にも属さない独立系なので、業転市場からの仕入れをメインにしている。系列に属さないということは仕入れ面で強力なバックがないというのはリスクではあるものの、製品をどこからでも仕入れられるというメリットもある。